きっかけは、子どもです。ぼくは赤ん坊にミルクをあげるときも、肌身離さずスマートフォンでインターネットを見ていました。気になるニュースがあるときは、息子に話しかけられてもほとんど相手をせず、ただただ黙って、小さな画面をスクロールしていました。

 それを見ている子どもは、「親がそんなにも夢中になっているものだから」というそれだけの理由で、スマートフォンを触りたがります。そしてあっという間に、その使い方まで覚えてしまいます。

 ぼくはスマートフォンが子どもに悪影響を与えるといいたいわけではありません。

 息子も中高生になれば、まわりの子どもたちと足並みをそろえるように、自分だけのスマートフォンを持ち、それをつかって友人たちとコミュニケーションをとり、毎分毎秒更新される世界のなかに没頭するはずです。そしてその便利なツールをとおして、たくさんのことを知り、たくさんのことを学ぶはずです。

 ぼくはスマートフォンをやめることで、ずいぶんと自由になった気がします。

 スマートフォンをいじっているときは、たいした用もないのに毎日が慌ただしかったのですが、いまは一日二四時間を長いと感じます。

 そのぶん、子どものことをよく見るようになりました。

 そしてテレビや本、雑誌をよく読むようになりました。

スマートフォンをやめて得た時間

 スマートフォンが画期的だったのは、その起動時間の速さだと、いまさらながらに思います。誇張でもなんでもなく、一〇秒の空き時間があれば、スマートフォンでニュースやSNSをチェックできます。ぼくは実際そうしていましたし、エレベーターを待つ時間でさえも長いと思うようになっていました。

 一日のなかで、一〇秒の空き時間さえスマートフォンに奪われてしまったら、ゆっくりと流れる時間などどこにもありません。つまり、便利さと引き換えに、ぼくは自分の時間をスマートフォンに譲り渡していたのだと思います。

 いまは、その空いた時間をつかって、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』というフランスの長篇小説を読んでいます。全一三巻。スマートフォンがなかったときのことを思い出すようにして、長い小説世界の時間に身をゆだねています。

 トルストイの『戦争と平和』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、ディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』、プルーストの『失われた時を求めて』。20代だったぼくは、長い小説から順に読んでいこうとばかりに、一時期、長篇小説ばかりを読んでいたときがありました。

 小説のなかの具体的なことはほとんど覚えていないのです。主人公の名前すら、思い出せません。けれど、千ページの、なかには五千ページ以上の本を読み続けていた時間は、いまでもぼくを支え続けています。それくらい長篇小説のなかには、干上がることのない、豊かな時間が流れています。

「ジャックは、妙にいやな気持ちでたまらなかった。心にもなく?をついているような気持ちで、ほんとのことを言おうとすればするほど、ますますそれから遠ざかっていきそうだった。それでいて、彼の話したことには、なにひとつ不正確なことはなかった。だが、言葉のちょうしなり、煩悶についての誇張なり、打ちあけ話の選び方なり、彼にははっきり、自分が、生活についていつわりのすがたを描きだしているように思われた」(『チボー家の人々』二巻・少年園)

 長篇小説では、しばしば、こうした微に入り細を穿つ描写が続きます。

 読者はそれを読み続けていくうちに、登場人物たちが成長し、彼らが人生の選択肢を果敢に選んでいく瞬間に出会います。

 彼らのうちの何人かは本のなかで生涯を終えますが、彼らの人生に直接触れたような得も言われぬ感覚は、長く読者のこころのなかに残ります。

『チボー家の人々』を一カ月かけて読み、いまはやっと五巻の半分です。

 今年の夏は忘れられない日々になりそうです。