きっかけは、子どもです。ぼくは赤ん坊にミルクをあげるときも、肌身離さずスマートフォンでインターネットを見ていました。気になるニュースがあるときは、息子に話しかけられてもほとんど相手をせず、ただただ黙って、小さな画面をスクロールしていました。
それを見ている子どもは、「親がそんなにも夢中になっているものだから」というそれだけの理由で、スマートフォンを触りたがります。そしてあっという間に、その使い方まで覚えてしまいます。
ぼくはスマートフォンが子どもに悪影響を与えるといいたいわけではありません。
息子も中高生になれば、まわりの子どもたちと足並みをそろえるように、自分だけのスマートフォンを持ち、それをつかって友人たちとコミュニケーションをとり、毎分毎秒更新される世界のなかに没頭するはずです。そしてその便利なツールをとおして、たくさんのことを知り、たくさんのことを学ぶはずです。
ぼくはスマートフォンをやめることで、ずいぶんと自由になった気がします。
スマートフォンをいじっているときは、たいした用もないのに毎日が慌ただしかったのですが、いまは一日二四時間を長いと感じます。
そのぶん、子どものことをよく見るようになりました。
そしてテレビや本、雑誌をよく読むようになりました。
スマートフォンをやめて得た時間
スマートフォンが画期的だったのは、その起動時間の速さだと、いまさらながらに思います。誇張でもなんでもなく、一〇秒の空き時間があれば、スマートフォンでニュースやSNSをチェックできます。ぼくは実際そうしていましたし、エレベーターを待つ時間でさえも長いと思うようになっていました。
一日のなかで、一〇秒の空き時間さえスマートフォンに奪われてしまったら、ゆっくりと流れる時間などどこにもありません。つまり、便利さと引き換えに、ぼくは自分の時間をスマートフォンに譲り渡していたのだと思います。
いまは、その空いた時間をつかって、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』というフランスの長篇小説を読んでいます。全一三巻。スマートフォンがなかったときのことを思い出すようにして、長い小説世界の時間に身をゆだねています。