「朝生」はどのようにして
これほどの知名度を獲得したのか?
鈴木 36年前から放映しているので、その間に、やりたいテーマが山のように蓄積されているんです。そこから、その時代に合った切り口で出していきます。
憲法9条の改正が注目されているときは「憲法改正」をテーマにしたり、安倍政権が女性活躍を推進したことがありましたが、実際は働きながら育児をする女性は大変で活躍どころではない、だからあえてそのときは「女性が輝く社会」をテーマにしたり、たくさんのテーマが、今か今かと、出番を待っているんです。ですから、ネタに困ることはまったくないですね。
田原 鈴木さんにはいつもご苦労をかけて申し訳ないのですが、僕はその候補の中から一番、タブーを選ぶようにしてます。タブーをぶち壊したいんです。例えば原発問題。原発推進派と反対派にタブーなしの大討論をしてもらう。
鈴木 原発問題は田原さんのライフワークですね。1970年代からずっと取材を続けていましたからね。(原発のある)地元の人も、反対する人たちも、賛成する人たちも、電力会社も、取材されてきた。田原さんはそれぞれの主張をすべて把握されている――。だからこそ、朝生で、推進派と反対派を一堂に集めて討論してもらう、という企画が立ち上がったんですね。それがひとつの、朝生における討論の形として形成されていきました。
以降、原発問題はたびたびテーマとして取り上げていましたが、2011年の東日本大震災以降は、毎年必ず行うことにしています。ひとたび事故が起これば、故郷を失う避難民が生まれるのが原発です。福島に帰れない方は今なお3万人もいるんです。ですので、何があっても毎年1回は原発問題を取り上げると。
田原 僕がテレビ東京をクビになったのは、原発問題に首を突っ込みすぎたからだからね(※詳細は『田原総一朗はなぜフリージャーナリストに?知られざるエネルギー問題との因縁』(2021.3.18)参照)
鈴木 エネルギー問題を取り上げるのは本当に難しいんです。国策でもありますし、それぞれの地域ごとに複雑な事情があります。なかなか切り込んでいくことができない。でも田原さんは、長年の取材のご経験があるので、ディティールにわたって把握していらっしゃる。田原さんがいるからこそ、自由に討論ができる。私たちは、田原さんという横綱の懐を借りて、番組をつくっているんです。
先ほどお話ししましたように、ニュース番組に与えられている時間は30分とか1時間です。そうなると、解説や説明はできても、それぞれの主張の違いを明らかにするところまではいけないんですね。ですから、特に原発問題のような複雑で難しいテーマは、朝生のように3時間の番組だからこそできるテーマだなと思います。
――朝生は昔は何時間あったのですか?
田原 元は5時間でしたね。
鈴木 年越しの特番で、9時間というときもありましたね。
戦争が語り継がれてきた家庭もあれば
語られてこなかった家庭もある
――昔と今の朝生を比べて、一番「変わった」と思うのはどの部分ですか?
田原 戦争を知っている世代がいなくなったことでしょう。
鈴木 あとは、女性の論客が少しずつですが、増えてきたことですね。
女性はこれまで、外交や安全保障などに限らず、いわゆる専門家が少なかった。日本は男女格差もあり、女性活躍が難しい。そのような中でも、経験を積んで論客となる女性が徐々に出てきたことも事実です。放送作家の久利さんは良く、「番組を見ている人の半分は女性なのだからパネリストも半々にすべき」とおっしゃっていますね。
コロナ禍の最中、出演者の男女比が半々になったことがあったんです。コロナ禍のような非常事態においては、社会の中で女性が活躍する場が多かった。それが反映されたんですね。
私はどんどん女性もこうした場に出てきていただきたいと思っています。「社会に出るのが良い」という価値観がすべてではないですが、女性の選択肢が増えることは大切です。田原さんも毎月、超党派(※党派的な利害をこえて一致協力すること)の女性議員の勉強会を行っていますよね。
田原 そうですね。朝生のプロデューサーも女性ですからね。
鈴木 あとは、昭和の終焉が(朝生の)ひとつの区切りでもあったと思います。「朝生、最初の頃は本当におもしろかったね」と皆さんおっしゃいます。私もそう思いますし、「あのときの番組の熱量はどこにあったのだろう」と、今も思うときがあります。でもあれは、社会全体が熱量を持っていたんですね。「昭和」という時代は、戦争と平和の時代であり、日本の復興を社会全体の熱量が後押しした時代でした。世界でもベルリンの壁が崩れ、東西冷戦が勃発する。そうした時代背景がありました。
田原 当時は戦争を知っている世代が多かったので、みんな心から戦争反対なんですよ。大島さんも野坂さんも、自分が戦争に加担したかもしれないという罪の意識があった。マスコミの報道をうのみにしてしまったのが良くなかった、もうマスコミなんか信用できないと。だから、テレビ朝日のために朝生に出演するのではなく、テレビ朝日をぶっつぶしてやろうと、そういう意気込みで毎回、出ていた(笑)。
鈴木 戦争を知っている世代はずっと贖罪意識を持って、日本を良くしようと一生懸命やってきたのだと思います。それが50〜60代になって自分たちが大人になって成熟したとき、世の中はまたおかしくなろうとしている。一体どうなっているんだ。自分が今までやってきたことは何だったんだ。何か言ってやらないと気がすまない。そうしたエネルギーですよね。
「こんな日本でいいのだろうか」「これから日本はどこへ行くのだろう」――。こうした熱量がすごく渦巻いていた時期に、ちょうど「朝生」が誕生した。公の場で、大勢の視聴者の前で、何でも言っていい、何でも話せる場があるんだ。こうした、大人の解放区的な、朝生という場に、皆さん飛びついたのではないかなと思います。
視聴者の側も、家族の中で戦争が語り継がれてきた家庭もあれば、あえて戦争の記憶を封印して語られてこなかった家庭もある。戦争の影がまだいろいろな形で家庭の中に残っていた。そうした家庭で育ってきた人たちが、太平洋戦争や昭和という時代の総括を試みるあの番組に、心を動かされたのだと思います。番組を見ることで、「家族で話してみようよ」あるいは「もう話さなくていいんだよ」と、世代間のコミュニケーションのきっかけとなる。
視聴者や登壇者含め、そうした日本中のエネルギーが結実した結果、朝生は国民的な番組へと成長したのではないかと思います。
田原 ですから初期の頃は圧倒的に左翼が強かったんですよ。保守派は少なく、なかなか出演してくれない。そこで(保守思想家の)西部邁(1939〜2018年)に出てくれないかと依頼したんです。少数派で悪役になるけれどお願いできないかと。でも彼は喜んで悪役を買って出てくれました。彼のおかげで番組が成立した面もあり、本当にありがたかった。
――番組づくりにおいて、おふたりが特に意識している点は何でしょうか?
田原 僕はやはり「タブーをぶち壊す」。メディアというのは、政府の批判をするものだけど、徹底的にやるとつぶされてしまう。テレビは免許事業なので、複雑な縛りがいっぱいあるんですよ。なので、メディアによる政府批判というのはいずれも中途半端なんです。でも、朝生のような形であれば、どんどんタブーに挑戦できる。こうした番組はほかにはない。
1988年に「天皇制」や「天皇の戦争責任」等をテーマに議論しようとしました。でも、当時の編成局長に反対されたんです。当時は今よりも皇室問題はタブー視されていましたし、天皇が危篤状態の時にこうしたテーマを扱うと右翼から何をされるかわからない。ですから、編成局長の判断も理解できます。でも僕とプロデューサーはあきらめず、何度も掛け合いました。でも結局、OKをもらえなかった。そこで、その年はソウルオリンピック開催の年でしたから、表向きは「日本人とオリンピック」というテーマにして、途中で急に、天皇制をテーマとした議論へと切り替えたんですよ。
――もともと途中で切り替えることを計画していたのですか?
鈴木 当時の日下プロデューサーと田原さんが画策していたんですよね。番組中に日下さんがスタジオへ出ていって、今日こうして皆さんに集まっていただいたのは実はこういう理由なんですって。テーマを切り替えてしまった。もちろん出演者の皆さんは事前にそのことを知っていました。でもテレビでこうしたテーマを議論するなんて初めての経験なので、なかなか踏み込んだ発言ができないわけです。するとCM中に日下さんがまた出てきて、ここまで来て意見を言わないなんておかしいだろうと、怒ったんですね(笑)。
田原 生放送ならではですよね。視聴者もドキドキしながら見ていた。後日、編成局長に謝罪へ行ったんですよ。すると、抗議も来ていない上に、視聴率も高かった。それで、「大みそかにまたやってね」と言われた(笑)。