カイロ・アメリカン大学へ留学し
中東・アフリカを担当

 当時はニッチに映ったかもしれないが、中東を専門にするという戦略は実に正しかったとしか言いようがない。黒木はバブル絶頂期の日系銀行のプレーヤーとして、目覚めつつあった中東とアフリカへ投資マネーが注ぎ込まれるユーロ市場のダイナミズムの中へ、飛び込んでいく。

「あの頃、中東アフリカを専門に、真面目にファイナンスに取り組む人は少なかったから、僕のキャリアは日本人としては若干特殊かもしれないですね。中東は当時から製油所、発電所、淡水化プラントなどのプロジェクトファイナンスが盛んだったから、やることはいっぱいあった。だけど当時でも大きくて数億ドル規模。今じゃ10倍のサイズでしょう、ゼロが一つ少ない時代です」

『メイク・バンカブル!』にも、黒木が融資団の主幹事役を務めた航空機ファイナンスの顛末(てんまつ)が収められているが、宗教的な事情や国民性の違いなど、読み手もしびれるようなリアルさ、臨場感だ。

 サウジアラビア航空が1億500万ドルの貨物用ジェット機を1機調達するシンジケートローンに、邦銀6行、中東の銀行が4行参加。仕事の話しかできないアジア人を見下すような教養主義の英国人、野心家で戦略に長けた米国人、国内のポジションもプライドも高いアラブ人の間を縫うように、邦銀バンカーが奔走する。のみ込みが早く、シンジケートローン案件のマンデートを次々と取りにいくヤングバンカー・黒木の姿は、時代と才覚の追い風を受けた小気味よい疾走感で描かれている。

アラブ人、トルコ人、インド人……
優れたバンカーに出会う

 世界中の資本と野心が吸い寄せられ、いまや高々とした巨大建設が次々と建ち上がっていく中東。だが80~90年代の中東は、今以上のハイリスク・ハイリターンを地で行く不安定ぶりでもあった。

 バーレーンからオマーンの首都マスカットへ向かうべく乗った、ガルフ・エアー機。ところが着陸まであと10分というところで技術的問題が起き、目的地が急遽アラブ首長国連邦のアブダビへ変更される。胴体着陸を覚悟してアラブ版“水杯”まで交わしたクルーや乗客たちが無事の着陸を喜び合う光景の活写などは、当時の生の息吹を知る黒木ならではだ。

※水杯(みずさかずき)…二度と会えないかもしれない別れのときなどに、杯に酒の代わりに水をついで飲み交わすこと。

 そんな日々の中で、若き日の黒木は優れたバンカーたちに出会い、プライベートでも親交を築いた。

「インド人やトルコ人、アラブ人バンカーは親しみやすかったですね。僕がカイロ・アメリカン大学を出ていることで、クウェートやバーレーンへ出稼ぎしているようなエジプト人も親しみを持ってくれました。エジプト系アメリカ人のバンカー、ムラード・メガッリとはとても仲が良かった。二卵生双生児のモナというシスターがいて、家内を含めて4人とも同い年だから、家族ぐるみの付き合いでした。ムラードは元シティバンク、僕が知り合った頃は金融コンサルのパンゲア・パートナーズ・リミテッドのパートナー、その後はチェース・マンハッタン銀行の中央アジア・トルコ・中東地区のCEOになった」

「彼と話をすると、まるで真空に向かってひとりで話しているように感じるんですよ。電話の向こうで、黙って相手の話を聞いて、明晰な答えを端的に返す。僕のデビュー作『トップ・レフト』がトルコ語に翻訳されて、地元の新聞に2ページのインタビューが掲載されたんだけど、トルコ人の出版エージェントがなかなか掲載紙を送ってこない。ムラードに話したら、なんだそんなことは俺に言えよと。あっという間に入手して、2~3日後には空輸で数部をロンドンへ送ってくれた。仕事のできるトップクラスのインベストメントバンカーとは、こういう頭の良さと実行力を持つ人なんだと感心しましたね」