「世界史とは、戦争の歴史です」。そう語るのは、現役東大生集団の東大カルペ・ディエムだ。全国複数の高校で学習指導を行う彼らが、「戦争」を切り口に、世界史の流れをわかりやすく解説した『東大生が教える 戦争超全史』が話題を呼んでいる。世界史、現代情勢を理解するうえで超重要な「戦争・反乱・革命・紛争」を地域別にたどった、教養にも受験にも効く一冊だ。古代の戦争からウクライナ戦争まで、約140の戦争が掲載された、まさに「全史」と呼ぶにふさわしい教養書である。今回は、本書の内容を一部抜粋しながら、キリスト教の一派「プロテスタント」がどのように生まれたのかについて著者に教えてもらった。
プロテスタント=抗議する人
キリスト教には、多くの「教派」があります。その中でも、最も多くの方が知っている教派は、「カトリック」と「プロテスタント」の2つでしょう。
プロテスタントとは、「抗議する人」のことを指します。この名前の通り、カトリックに対する「抗議」がプロテスタントのスタートです。今日は、プロテスタントが生まれたきっかけについてみなさんにお話ししたいと思います。
カトリックが行った「免罪符の販売」を批判したマルティン・ルター
16世紀、カトリック教会内部への批判が渦を巻いていました。その中でも、ローマ教皇レオ10世も、とんでもないことをして批判を集めた一人です。
その頃、レオ10世がサン=ピエトロ大聖堂の建て直しに莫大な費用をかけたため、教皇庁は財政難に陥っていました。そこで彼は、この危機を乗り切るために、罪の償いのために必要な巡礼・断食・祈りなど免除する証明書として贖宥状(免罪符)を発行し、ドイツ(神聖ローマ帝国)を中心に販売を始めます。信徒たちは、この贖宥状に群がりました。
これは聖書にも書かれていない、まったく根拠のない代物でしたが、当時はまだ『新約聖書』のドイツ語訳は存在せず、ドイツの一般庶民はその内容をまったく知らなかったのです。
ここで、この贖宥状販売を批判する人物が現れます。それが、ドイツのヴィッテンベルク大学の教授であり、聖書を研究していたマルティン=ルターです。
彼は、「人は信仰によってのみ義とされる」、つまり人は行動ではなく信仰によって罪を赦され救われるとする考え(信仰義認説)に基づいて、教会を批判する「九十五か条の論題」を発表しました。また、神の前では聖職者と一般の信者に差はなく、皆等しく司祭であるとする万人司祭主義などをまとめた 『キリスト者の自由』を著しました。これにより、ルターは教皇レオ10世に破門され、さらに神聖ローマ皇帝のカール5世からも帝国追放処分を受けてしまいます。
『新約聖書』のドイツ語訳が完成。宗教改革が始まる
このときルターを保護したのがザクセン選帝侯フリードリヒでした。「選帝侯」とは、神聖ローマ皇帝を選ぶ権利をもつ7人の有力な諸侯のことです。反皇帝派だった彼による保護のもと、ルターは『新約聖書』のドイツ語訳を完成させました。
こうして、ドイツ国民は新約聖書の内容を深く知ると同時に、教会の腐敗を理解します。
そして、聖書を信仰上の唯一の権威とすることなどを掲げたルター派が生まれ、ドイツで宗教改革が始まるのです。「プロテスタント」の始まりですね。
宗教改革を背景に起きた「ドイツ農民戦争」
さて、この宗教改革を背景に起きたのがドイツ農民戦争でした。
この農民反乱を指導したのが、ルターの思想に影響を受けたトマス=ミュンツァーです。
ミュンツァーは、宗教改革を農民解放などの社会改革に結びつけて反乱を起こし、反乱はドイツ全土へと拡大していきました。当時の農民たちは、農奴制、領主制、十分の一税といった厳しい支配を受けており、それらの廃止を要求して、諸侯たちを相手に次々と反乱を起こしていったのです。
自らの思想により、意図せず農民たちの反乱を拡大させてしまったルターは、最初こそ農民に同情したものの、反乱の激化を見て「これはまずい」と思い始めます。
というのも、そもそもルターは、宗教上の改革を目指していたに過ぎず、社会改革を目指す反乱を引き起こすつもりはなかったからです。また、ルターは諸侯に保護されて助けられた身であり、諸侯に対して反乱を起こす農民を支持することはできませんでした。
ルターは、ついに反乱の鎮圧側に回ります。こうしたルターの態度も要因の一つとなり、反乱は終結しました。指導者のトマス=ミュンツァーは処刑され、農民たちへの懲罰もとても厳しいものであったようです。
東大カルペ・ディエム
現役の東大生集団。貧困家庭で週3日アルバイトをしながら合格した東大生や地方公立高校で東大模試1位になった東大生など、多くの「逆転合格」をした現役東大生が集い、全国複数の学校でワークショップや講演会を実施している。年間1000人以上の生徒に学習指導を行う。著書に『東大生が教える戦争超全史』(ダイヤモンド社)などがある。