「世界史とは、戦争の歴史です」。そう語るのは、現役東大生集団の東大カルペ・ディエムだ。全国複数の高校で学習指導を行う彼らが、「戦争」を切り口に、世界史の流れをわかりやすく解説した『東大生が教える 戦争超全史』が3月1日に刊行される。世界史、現代情勢を理解するうえで超重要な戦争・反乱・革命・紛争を、「地域別」にたどった、教養にも受験にも効く一冊だ。古代の戦争からウクライナ戦争まで、約140の戦争が掲載された、まさに「全史」と呼ぶにふさわしい教養書である。元外務省主任分析官である佐藤優氏も絶賛の声を寄せる本書の内容の一部を、今回は特別に公開する。

イギリスが清の人たちを麻薬漬けに!

 1840年、イギリスが、当時の中国王朝である「清」の人たちをアヘン(ケシの実の果汁を乾燥させた麻薬の一種)依存にしたあげく、アヘンの輸入を禁止した清に戦争を仕掛けたのがアヘン戦争です。他の戦争が、争った国や戦地、主要な人物が戦争の名前になる中、この戦争は原因となった「アヘン」が名前についているという変わった戦争です。

紳士の国イギリスが起こした、あまりに「非人道的な戦争」とは?『東大生が教える戦争超全史』より抜粋 ©野田映美

 17世紀半ば、明が滅亡した中国をまとめた清は、以降19世紀に至るまで広大な領土を有する超大国として発展しました。最大領域は現在の中華人民共和国よりひと回り大きく、今でいうモンゴルや、中央アジア、ロシアの一部も含んでいました。

 繁栄を極めていた頃の清は「茶・絹・陶磁器」という、ほかでは作れない特産品をヨーロッパや東南アジアに輸出して儲けていました。現代の私たちからすると不思議ですが、当時これらは非常に価値が高く、生活に欠かせないものでした。たとえるなら「冷蔵庫、洗濯機、スマホ」を売っていたようなものです。それを独占販売していたのですから、儲かって当然です。

 17~18世紀の清とイギリス間の貿易は「片貿易」といわれ、清が茶、絹、陶磁器を売り、イギリスが銀で代金を支払うという一方的な状況にありました。

 当時、紅茶大国のイギリスでは空前のお茶ブームが起きていて、清から茶や陶磁器を大量に輸入せざるを得なかったのです。そのため、大量の銀がイギリスから清に流れてしまいました。イギリスも産業革命を成し遂げ、安価な綿織物を大量生産できるようになってはいましたが、絹織物の本家たる清はそれを欲しがらず、状況は変わりませんでした。

銀を回収するために、イギリスが悪いことを思いつく

 当時、銀の流出は、国家が貧しくなることを意味しました。そこでイギリスは、何がなんでも銀を回収しようと試み、かなり悪いことを思いつきます。それが、植民地のインドを巻き込んで間接的に清から銀を取り返す方法です。イギリスはインドにアヘンという薬物の一種を栽培させ、清に(ひそかに)出荷させます。たちまち清の人々はアヘン依存になり、今度は大量の銀が清からインドに流れ込みました。そしてイギリスは、植民地インドに大量の綿織物を買わせて銀を回収したのです。

 19世紀に起こったこのイギリス、インド、清の三角貿易は面白いほどイギリスにとってうまく運び、清とイギリスの立場がとうとう逆転しました。

清がアヘンの輸入を禁止したため、イギリスが逆ギレ!

 しかし、国民がアヘンでダメになり、財政が悪化するのを清も黙って見過ごすわけにはいきません。清はアヘンの輸入・吸引禁止と、アヘンを取り締まる法律をつくって対策を施しました。しかし、すでにアヘン依存者が多数いる清では、禁止といわれたところでそれを守れるはずもなく、密輸・密売が公然と行われる状態となります。

 このままではまずいと考えた清は、林則徐をアヘン禁輸対策の大臣に任命しました。彼は、イギリス商人から大量のアヘンを没収し、破棄しました。これに怒ったイギリスは、清に戦いを挑んだのです。

 ちなみに、これだけ非人道的な戦争は、当のイギリスでも「さすがにこれはマズいのでは?」という声が上がり、戦争反対の機運も高まったそうです。しかし、議会の採決の結果は賛成271票、反対262票と、わずか9票差で戦争が決まりました。

敗北した清は、香港をイギリスに割譲

 これだけ繁栄し、広大な土地を持つ清が負けるはずがない、という事前の下馬評とは裏腹に、この戦いはイギリスの圧勝に終わりました。それもそのはず、清が帆船であるのに対して、イギリスは外輪蒸気船で砲弾をどんどん撃ちこんでくるのです。たいした抵抗もできぬまま清は敗北を認めざるを得なくなりました。

 結果、清はイギリスと散々な不平等条約(南京条約)を結ばされることになります。このときに中国からイギリスに割譲されたのが香港です。貿易についても、当然イギリスに言われるままに自由貿易の解禁を決められ、清は5つの港を開港し、2100万ドルという多額の賠償金の支払い義務も負わされました。

 さらに清の敗戦は、「あの大きな清朝でさえ、ヨーロッパにはかなわない」と印象付けることになり、アジア世界がヨーロッパ世界の食い物にされていく、一つのターニングポイントになったと言えます。

 このとき日本は鎖国中でしたが、「あの清がイギリスに負けたらしい」と聞き、戦々恐々とすることになりました。そしてその不安は、そこから10年あまりたった1853年、ペリー来航というかたちで現実のものとなるのでした。

(本原稿は、『東大生が教える戦争超全史』の内容を抜粋・編集したものです)

東大カルペ・ディエム
現役の東大生集団。貧困家庭で週3日アルバイトをしながら合格した東大生や地方公立高校で東大模試1位になった東大生など、多くの「逆転合格」をした現役東大生が集い、全国複数の学校でワークショップや講演会を実施している。年間1000人以上の生徒に学習指導を行う。著書に『東大生が教える戦争超全史』(ダイヤモンド社)などがある。