前回は、住友金属工業(現日本製鉄)社長の日向方齊と、ソニー(現ソニーグループ)社長の井深大の対談を紹介した。日向は自由競争哲学の信奉者として知られ、自らが属する鉄鋼業界が協調して生産調整したり、民間企業の経営に行政が介入したりすることに対して、舌鋒鋭く批判を繰り広げた。稲山の対極に位置する人物といえる。
今回の稲山の記事は64年1月のもの。この年の10月に東京オリンピックが開催され日本の景気は絶頂を迎えたが、伸び続けてきた民間設備投資の反動により、年後半から戦後最大となる「昭和40年不況(証券不況)」に突入する。さすがに新年の時点で稲山はそんな未来を見越せてはいないが、安定成長のためには物価の安定が必須であること、さらに「あらゆる産業の土台になっている鉄の価格を安定させないで、工業国家としての経済安定ができるはずがない」と語っている。
そして、その方策については、あくまでも「協調」を最優先に掲げる。例えば、輸入物資の増加によって国内価格が不安定になることについては、「業者がみんな話し合って、輸入を抑えるようにすれば、心配は要らないのではないか。もちろん、鉄ばかりでは駄目だ。ほかの主要産業にも、これをやってもらわなければならぬ。主要な基礎原料についてのコントロールについて、自主的な協力を政府が求めたらいいと思う」と語っている。「そうした協力に応ずる体制をつくることは、基礎産業を預かっている会社経営者の企業責任であり、社会的責任であると、私は考えている。だから、そういう団体をつくったらいい。ところが、それは独禁法に引っ掛かるとか、カルテルだとかいう人たちがある。しかし、われわれのいうのは昔のカルテルとはわけが違う。国際収支の壁にぶつからないように協力する団体的行動なのだ」。
稲山は、競争を促す独占禁止法について「企業を地獄におとしめる諸悪の根源」と表現するほど、価格競争を徹底して嫌ったという。今回のインタビューでも「自由主義経済の原動力になっているものは競争だ、という考え方が一般的になっているが、私はそう思わない。それは競争そのものではなく、競争心だと思う。お互いの励む心、これをなくしてはいけない。しかし、価格競争はなくしてもいい、と私は考える」と、語っている。まさにミスター・カルテルの面目躍如である。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
価格の安定なくして
経済の安定はあり得ない
私がいま、一番関心を持っているのは、物価の問題、それから経済成長の問題だ。
私はいつも同じようなことを言っているが、代わり映えのしないことを、何べんも繰り返して言うのは、いまの日本で、基礎的な考え方がちっとも変わらず、問題が一向に解決していないからだ。
物価とか、経済成長とかいうが簡単に言えば、これは安定と成長の問題であり、経済の目的、政治の目的も、ここにあると思う。
もちろん精神面の問題もある。しかし、精神面のことは、しばらく置いて、物質面、つまり経済の面を考えると、安定を図りながら、成長を目指していく――これが大目的だと思う。
それでは、成長とは何か、安定とは何か。そう開き直ると、どうもそれが多くの人々にはっきり分かっていない。
成長ということは、すっぱりと割り切ってしまえば、物が増えるということだ。だから、成長を図るためには、もっと生産面を重く考えて、どうしたら物が増えるか、その方向に向かって努力しなければならない。しかし、実際の現象を見ると、設備にしろ何にしろ、抑えるという面がクローズアップされている。だが、この機械工業文明の時代に、設備を抑えたら、将来、物の生産が増えるはずがない。
従って、設備なり生産なりを、どうしたら最大限に伸ばし得るかという考え方が、根本にならなければならない。この辺の考え方がはっきりしてくれば、経済政策や、これに対する批判なども当然変わってくるはずだ。
また、安定というものは、物の物価、従って貨幣価値がスタビライズするということだ。価格の安定なくして、経済の安定はあり得ない。
ところが、世上では、何でも物は安ければいいんだといった素朴な経済論が、まかり通っている。これは日本経済そのものが未熟なのか、あるいは経済理論が未熟なのか、いずれにしてもその辺りに原因があるのじゃないか。
これに対して、私は私なりの考え方を主張しているんだが、こうした認識が一向に改まっていない。
“鉄は国家なり”という
言葉の真の意味
私は、新しい時代が来たのだから、当然、考え方も変わらなければならんと思う。新しい時代とはつまり、機械工業文明の時代だ。私はこれを“鉄の時代”といっている。
むかし、フランスのルイ14世が、“われは国家なり”といったそうだが、私は“鉄は国家なり”といってもいいと考える。私がこう言うと、世間では、けしからんといって反発する。