世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)学長。世界史を背骨に日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説した『哲学と宗教全史』が「ビジネス書大賞2020」特別賞(ビジネス教養部門)を受賞。宮部みゆき氏が「本書を読まなくても単位を落とすことはありませんが、よりよく生きるために必要な大切なものを落とす可能性はあります」と評する本書を抜粋しつつ、今回は「フロイト」に語ってもらおう。
「無意識が人を動かす」と考えた
フロイトの精神分析学とは?
立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県美杉村生まれ。京都大学法学部を卒業後、1972年、日本生命保険相互会社入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当する。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年に退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年4月、生命保険業免許取得に伴いライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年、上場。社長、会長を10年務めた後、2018年より現職。訪れた世界の都市は1200以上、読んだ本は1万冊超。歴史への造詣が深いことから、京都大学の「国際人のグローバル・リテラシー」特別講義では世界史の講義を受け持った。
おもな著書に『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『仕事に効く教養としての「世界史」I・II』(祥伝社)、『全世界史(上)(下)』『「働き方」の教科書』(以上、新潮社)、『人生を面白くする 本物の教養』(幻冬舎新書)、『人類5000年史I・II』(ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義 古代篇、中世篇』(文藝春秋)など多数。
ジークムント・フロイト(1856-1939)は、ニーチェより12年余り遅くオーストリアに生まれたユダヤ人の神経病理学者です。
精神分析の創始者ともいわれています。
いわゆる哲学者ではありません。
フロイトは「無意識」を発見したことで、人類に多大の知的貢献を行いました。
これまでの哲学者はニーチェまで含めて、哲学を理性、すなわち人間の意識をベースにして構築してきました。
いわば、すべては人間が頭で考えたことです。
ところが、フロイトは夢判断による患者の精神分析を行っているうちに、夢は無意識なものの表出であるが、その無意識に考えていることが実は人間を動かしているのではないか、と考えるようになります。
フロイトが唱えた「リビドー」とは?
哲学者は長い間、理性で考えたことを言葉に落とし文字に書き連ねて、意識の世界を精緻に論理化してきました。
そして、その中から立派な哲学の果実がいくつも誕生してきました。
しかしフロイトは人間を動かしているのは、脳の意識されている領域ではなく無意識の領域ではないか、という人間観を取り入れました。
そして実は、今日の脳科学の世界では脳の働きの90パーセント以上を占める、人間が意識できない部分の存在が確認されています。
そして、その部分が間違いなく人間を動かしているのです。
そういう意味でフロイトは、今までの哲学とはまったく違う切り口を取り入れた人です。
それではこの無意識の領域を動かしているのは何であると、フロイトは考えたのか。
それはリビドーであると述べたので、たいへんな話題になりました。
リビドーとは本来はラテン語で、欲望の意味です。
フロイトはこの言葉を、性的衝動を発動させる力と意味づけました。
人間の無意識な行動の裏側には、さまざまな性的な動機が働いている、という考え方です。
人間の無意識を支配するもの
たとえば、エディプス・コンプレックスがあります。
男の子は母の愛を得ようとして、同性である父を憎む態度を無意識に取ってしまうと、フロイトは考えました。
エディプス・コンプレックスとは、父とは知らずに父を殺害し母と結婚したギリシャ神話のオイディプスにちなんで、フロイトが創作した言葉です。
蛇足ながらコンプレックスとは、精神分析では「感情の複合」を意味します。
リビドーの解釈について、性的な衝動を重視していたフロイトでしたが、晩年に近くなると学説が変化してきました。
人間の無意識を支配するものとして、生の本能(エロス)と死の本能(タナトス)の存在を指摘したのです。
子孫を残そうとする生の本能が人間には強いのですが、世界を壊してしまいたいという死への本能も、また人間には強くあるのではないか。
そのようにフロイトは考え始めたのです。
そして、エロスとタナトスという概念をつくりました。
フロイトは哲学者として自分の理論を体系化したわけではありません。
しかし彼が精神分析の成果として残した多くの業績は、無意識の世界の大きさを指摘したことも含めて、現代の哲学、思想界や芸術界などに大きな影響を与えました。
哲学と宗教の歴史について考えてきた本書は、現代20世紀の直前の時代(近代)を「ヘーゲルの3人の子どもたち」とフロイトで締めくくりたいと思います。
フロイトの無意識の世界について考える姿勢は、キルケゴールやニーチェの隣にいる従弟のようにも思えるからです。
(本原稿は、出口治明著『哲学と宗教全史』からの抜粋です)