最近の歴史教科書では、聖徳太子の時代の推古天皇より前の天皇については、名前すら教えていない。神武天皇は神話の登場人物として、また、仁徳天皇は大山古墳が「伝仁徳天皇陵」として出てくる教科書がある程度だ。

 一方で、「卑弥呼」「倭王武」など、中国人が呼んでいた王の名は出てくるが、当時の日本人がそんな名前で呼んでいたわけでない。生前使われていない名前で呼ばれる歴史的人物は他にもいくらでもいるから、崇神天皇とか応神天皇とか呼んでも差し支えはあるまい。

『日本書紀』に書かれた
神武天皇の即位年は紀元前後?

 日本の皇室では、8世紀に編纂された公式の史書である『日本書紀』に基づき、紀元前660年に即位した神武天皇と呼ばれる王者が初代であるとしている。伊勢神宮に祭られるアマテラスという女神の孫が九州の宮崎県に天上から降り、その曽孫である神武天皇が奈良県にやってきて橿原市に小さな国を建てたのが、この年の2月11日だとし、この日が建国を記念する日として祝日となっている。

 ただし、この国の支配地域は奈良県の一部にとどまり、10代目の崇神天皇になって奈良県を統一し、本州の中央部を支配する日本国家の原型が完成したようだ。そして、14代目の仲哀天皇とその皇后であった神功皇后の時に、大陸への窓口である北九州まで含めて日本を統一し、その後、朝鮮半島に領土を拡張したとされる。

 だが、『日本書紀』に書かれている歴代天皇の寿命は長すぎるので、通常の寿命に補正してみると、神武天皇は紀元前後の人で、崇神天皇は3世紀、仲哀天皇と神功皇后は4世紀の人物になる。

 日本人は独自の文字を持たなかったので、古い時代にあっては同時代に書かれた記録がなく、7世紀から編纂が始まり8世紀になって最初の正史が完成した。

 中国側の記録によれば、紀元前から日本列島の王者の使いが来ていたとあり、1世紀に後漢の皇帝から金印を授かった奴国王や、3世紀に魏と交流していた卑弥呼と呼ばれる女王が著名だが、彼らは統一国家の王ではなく九州の地方勢力だったとみられる(考古学者は畿内説支持が多いが国家成立史としては九州説が自然だ)。

 天皇の祖先による中国との国交は、5世紀の仁徳天皇から雄略天皇までの5人の天皇による南朝との交流が最初である(倭の五王)。特に、378年に書かれた倭王武(雄略天皇とみられる)の手紙には、この王者の先祖が、近畿地方から出発して、東、西、さらには、海峡を渡って朝鮮半島に領土を広げたと書いてあり、『日本書紀』の記述と一致する。