ビジネスによって広がったミラノサローネの「番外編」
サローネを核にフオーリサローネが広がるという複合的なイベントが生まれた理由に、サローネに出展したメーカーが、会場が終了した後の時間帯、つまり夕方6時以降でも商談の機会をつくりたいという狙いがありました。そしてもう一つは、建築やデザイン関係の出版社のもくろみです。出版社が自らの雑誌や関連事業の売上げを増やすにあたり、コンテンツのネタが盛りだくさんの「サローネの番外編」は好都合だったのです。
このビジネス目的で自然発生的に起こったムーブメントに、83年、雑誌「アビターレ」が初めて「フオーリサローネ」という言葉を用いました。91年からは雑誌「インテルニ」がフオーリサローネのイベントをカタログ化して、無料配布を始めます。このとき、「ミラノデザインウィーク」との表現が使われ、「番外編」の正統化が徐々に図られていきます。
その後、90年代末から今世紀初めにかけてフオーリサローネは、ミラノ市内に拡大していくことになりますが、その動きは基本的にボトムアップによるものでした。代表的な例に「トルトーナ(ZONA TORTONA)」という地区があります。前ページの地図の下部に位置する大きい丸で、ここは市内の中心から2〜3キロほど離れており、工場や倉庫の跡地でやや荒廃していた地区なのですが、ここをフオーリサローネの核にしようと動いた2人の人物がいます。
1人はジゼッラ・ボリオーリというファッションジャーナリストです。83年、トルトーナに写真スタジオを構えたことをきっかけに、彼女とこの地区との縁が生まれます。2000年、「ヴォーグイタリア」など数々のメディアを立ち上げた夫、フラビオ・ルッキーニと共にトルトーナの広いスペースを買い取ります。「スーパースタジオ」と称されたこの場のオープニングで、前衛的な家具デザインで知られるカッペリーニの新作発表が行われます。
もう1人がイベントプランナーであり、ミラノ工科大学デザイン学部でも教壇に立つルカ・フォイスです。トルトーナがファッションによる発展のきっかけをつかみつつある頃、彼は、プロダクトデザインを地区の活性化につなげる取り組みを始めます。この2人の取り組みが進んだ結果、トルトーナはデザインの重要な場所として認知が広がります。そして、ミラノデザインウィークにおいても数多くの展示が行われる場所となり、フオーリサローネが市内全域に拡大する動きの中心となりました。
トルトーナで起こったことは、まさにボトムアップのアプローチがベースです。ボリオーリとフォイスは、それぞれの動機、それぞれのやり方で取り組みを進めました。その結果、フオーリサローネ全体に影響をもたらすことになるのです。