今月15日夜に死去した池田大作氏が歩んだ人生は、創価学会の発展史そのものだ。学会が国内最大規模の宗教組織になり得たのは、名誉会長である池田氏の手腕とカリスマ性に拠るところが大きい。戦前・戦中・戦後の高度経済成長期を経て、池田氏はどのように“王国”を築き上げたのか。その軌跡を追った。(ダイヤモンド編集部副編集長 重石岳史)
生活の困窮、病、戦争の恐怖
記者になりたかった少年時代
羽田空港に近い東京・大田区の臨海部。戦前は砂浜が広がり、ノリの養殖が盛んな場所だった。1928年、池田大作はこの地でノリ製造業を営む一家の五男として生まれた。
小学校2年生の時、父がリウマチで寝たきりとなった。生活は困窮し、池田は家業の手伝いや新聞配達をして家計を助けた。結核で病床に伏すことも多く、第2次世界大戦では出征した長兄を亡くしている。
生活の困窮、病、そして戦争の恐怖という10代の原体験が、その後の人生を決定付けたであろうことは想像に難くない。
敗戦後の荒廃と虚脱の中で、池田は後の創価学会第2代会長、戸田城聖と出会う。
戸田は北海道での教員生活を経て上京し、牧口常三郎と共に「創価教育学会」を創立した人物だ。戦時中に検挙され、2年間の獄中生活の後に出獄してからは、創価教育学会を創価学会と改称し、再建に取り組んでいた。
池田はその人格に惹かれて学会に入会したといい、当初は「宗教そのものには抵抗があった」と後に語っている。それでも夜間学校に通いながら学会の座談会などに参加し、戸田が経営していた出版社「日本正学館」で働き始める。
少年時代から「新聞記者か雑誌記者になりたい」(日本経済新聞のコラム「私の履歴書」)という夢を抱いていた池田は、日本正学館で少年雑誌の編集に携わるが、売れ行きは芳しくなかったようだ。
雑誌は廃刊となり、新たに参入した信用組合も負債を抱えて業務停止となってしまった。通っていた大世学院(後の東京富士大学短期大学部)の夜間部も中退を余儀なくされ、このころの池田は挫折の連続だった。
青年時代に挫折を味わった池田氏は、ある功績が認められて頭角を現していく。多くの学会員を惹き付けたカリスマの正体とは何か。次ページでその実像を解き明かす。