「懸待一致」という剣道の用語がある。
懸は「懸かる」で攻撃を意味し、待は「待つ」で防御を指す。経営にも「攻め」と「守り」があるように、攻撃と防御は常に表裏一体の関係にある。
人口に膾炙する「攻撃は最大の防御なり」も、出典とされる『孫子』をひも解くと、読むがままの好戦的な意味合いとは、本来の趣旨は異なる。「昔の善く戦う者は先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ」──まずは守りを固めて負けない体制を整えたうえで、敵が誰であろうと勝利できる状態になるのを待って攻めることが、戦いを巧みに勝ち抜く方法である、と孫子は説いている。すなわち攻防一体である。
コロナ禍での物流の停滞、中国のレアメタル禁輸、ロシアのウクライナ侵攻、台湾有事への懸念など、世界情勢が不安定化し、地政学上のリスクが高まる中で、企業は難しい選択を迫られている。そこで、昨今注目されているのが、軍事面だけでなく経済面でも他国からの脅威に備える「経済安全保障」だ。
経済同友会は2021年4月、「強靱な経済安全保障の確立に向けて ―地経学の時代に日本が取るべき針路とは―」という提言の中で、企業経営者に対して経済安全保障への意識を高めるよう促している。
いわく「グローバル化と自由主義経済を謳歌する時代は終わりを迎えた。企業経営者は、国家の安全保障が政治力や軍事力だけでは達成できない時代において、国家や社会に対する責任の重さをあらためて認識しなければならない」。
岸田文雄内閣も看板政策の一つとして、経済安全保障を掲げている。2022年5月に成立し、2023年から段階的に施行された経済安全保障推進法が制定された経緯・趣旨には、「国家・国民の安全を経済面から確保するための取り組み」と記されている。
経済安全保障は国防を軸とする軍事安全保障と関連付けられていることから、一般的には「守り」ととらえられがちだ。しかし、経済安全保障はその字面とは異なり、範囲は多岐にわたり、かつ攻守が一体化した戦略が求められる。
とはいえ、リスクを回避する「守り」に入らざるをえない日本企業が多数派を占めるのが現実だ。だからといって、リスクを取る「攻め」をおろそかにすると、企業の成長はおぼつかない。
「経済安全保障は企業にとってリスクではなく、好機ととらえるべき」と主張するのは、『米中の経済安全保障戦略』(芙蓉書房出版)、『経済安全保障と技術優位』(勁草書房)などの編著書で経済安全保障について警鐘を鳴らし続けている鈴木一人氏である。鈴木氏は、東京大学公共政策大学院教授として教鞭を執る一方、国際文化会館地経学研究所所長を兼ねる。リスク回避という「守り」と、国益と企業の利益に資する「攻め」が一体になって、初めて日本経済に成長がもたらされる、と鈴木氏は訴える。
経済安全保障に対する考え方、とらえ方は千差万別だ。企業経営者の中でも、危機感や当事者意識には温度差がある。このように茫洋とした経済安全保障の定義や範囲、論点をはっきりさせたうえで、日本企業の喫緊の課題は何か、経済安全保障を通じていかに日本の技術力を高め、自国の競争優位を打ち立てるか、その方策について聞いた。
経済安全保障では必ずしも
国と企業の利害は一致しない
編集部(以下青文字):「経済安全保障」という用語にはさまざまな定義が存在します。政治家や研究者など、立場によって解釈が異なることもあり、漠然としたイメージしか持てない人が多いのではないでしょうか。一義的には「経済的な側面で国家安全保障上の課題への対応を強化すること」などといわれることが多いようですが、先生の定義はいかがでしょうか。
鈴木一人
KAZUTO SUZUKI立命館大学大学院国際関係研究科修士課程修了、英国サセックス大学大学院ヨーロッパ研究所博士課程修了(現代ヨーロッパ研究)。筑波大学大学院人文社会科学研究科専任講師・准教授、北海道大学公共政策大学院准教授・教授などを経て2020年10月から東京大学公共政策大学院教授。国連安保理イラン制裁専門家パネル委員(2013~15年)。2022年7月、国際文化会館の地経学研究所(IOG)設立に伴い所長就任。主な著書に、『宇宙開発と国際政治』(岩波書店)などが、また編著として『経済安全保障と技術優位』(勁草書房)、『バイデンのアメリカ:その世界観と外交』(東京大学出版会)、『技術・環境・エネルギーの連動リスク』(岩波書店)、『EUの規制力』(日本経済評論社)などがある。
鈴木(以下略):安全保障といえば、これまでは軍事に関することがほとんどでした。すなわち、武力など物理的な力を行使して、自国の領土や安全を脅かす、敵の攻撃を排除するということです。
これに対して経済安全保障は、一言で言えば、「他国の経済的な攻撃に対して自国の経済秩序、社会秩序を守る」ことになります。軍事的な安全保障に対して、手段が経済的であるわけです。
日本の経済安全保障は、次の3点に集約されるでしょう。
①サプライチェーンを守る。
②技術の流出など、競争力を奪う経済攻撃から守る。
③他国の規制によって受ける経済被害から自国を守る。
経済活動を守ろうとすると、いきおい自分たちの技術力や競争力を奪おうとする「攻撃」に対処することも範疇に入ってきます。その最たるものが、①のサプライチェーンの強靭化などの対策です。
一例を挙げましょう。2010年、尖閣諸島沖で操業していた中国の漁船が、退去を警告した日本の海上保安庁の巡視船に体当たりする事件が発生しました。中国政府は、日本が中国に依存しているレアアースの輸出を一時的に禁じたほか、輸出割り当てなどを通じてレアアース市場を操作しようとしました。こうした中国からの経済的威圧に対抗する取り組みこそ経済安全保障にほかなりません。
軍事的な安全保障と経済安全保障は大きく異なる点があります。前者の場合、防衛省や自衛隊が主たる役割を担います。その最高司令官は総理大臣です。つまり、国が決めれば成立するのが、軍事的な安全保障です。しかし、後者はそう簡単ではありません。なぜなら、個々の企業の戦略や利害と国の政策や利害が必ずしも一致しないことが往々にして起こりうるからです。
先ほどのレアアースのケースで考えると、政府は日本の経済安全保障の観点から、輸入元を増やそうとします。ところが、企業の経済合理性に照らせば、中国より高いところから買う必要はありません。したがって、いくら国が号令をかけても、足並みが揃わないこともありえるわけです。しかし一方で、輸入元を中国だけに依存してしまうと、有事の際には中国から輸入できなくなるリスクが生じます。企業の経営戦略上、またリスク管理上、輸入元を複数用意しておく必要があることは言うまでもないでしょう。
つまり、国の安全保障と企業のリスク管理という観点から、国と企業が経済安全保障の重要性について共通認識を持ち、歩調を揃えていかなければならないのです。
こうした共闘の必要性は、対中戦略に限らず、国内の企業間取引、とりわけ中小企業との取引にもいえることです。実際、大企業は例外なく、技術、原料や資材、サプライチェーンなどを中小企業に依存しています。そのことも含めて、産業界が安全保障上のリスクに備えることで国の安全保障に貢献するという認識を持たなければなりません。しかし残念ながら、そのように認識している経営者はあまり多くありません。