阪神・淡路大震災
「お風呂シップ」誕生秘話
フェリーが被災地で風呂を提供するきっかけは、何だったのか。1995年の阪神・淡路大震災直後、自社フェリーで風呂を無料開放し、「お風呂シップ」の名が付くまでに親しまれたジャンボフェリー(加藤汽船グループ)に、当時の話を聞いてみた。
阪神・淡路大震災は、1995年1月17日午前5時46分に発生した。東神戸フェリーセンター(当時)~高松東港間を結んでいたジャンボフェリー船舶のうち、「こんぴら2」は荷役がほぼ終了し、4分後(5時50分)の出港を待っていたところ、突然の大地震に襲われた。岸壁がぼろぼろと壊れていくのを見てとっさに出航を早め、こんぴら2は船体に損傷もなく、無事に沖合に出ることができたという。
一方で、りつりん2は、午前4時30分に高松東港を出港し、5時46分はまさに震源地のほぼ真上、明石海峡沖を通過していた。「何かに衝突したのか!?」と勘違いするほど尋常でない衝撃を感じたそうだ。
東神戸フェリーセンターは周辺の液状化が起きたものの、幸い第2バースは陸地と船をつなぐ可動橋が無事だった。海底に突起物がないことが早期に確認できたため、震災発生から1週間後、こんぴら2が試験的に入港した。
その際に、センターの職員たちが「もう1週間も風呂に入っていない。頼むから入らせてほしい」と懇願したところ、こんぴら2の船長が快く許可を出した。すると、その様子を見た近隣の被災者が次々と入浴の列に並び始めたという。
センターがある東灘区は、至る所で家屋が倒壊し、風呂のない避難所で過ごす被災者が多かった。そういった事情を知る乗組員は、機転を利かせて1時間・男女入れ替わり制で風呂を提供するようになった。風呂水はみるみる泥水のようになり、船内のじゅうたんは砂まみれになったという。
ここで、もう1隻のりつりん2を高松東港から呼び寄せ、風呂の提供を継続した。その間に、こんぴら2は高松東港に給水に戻り、と繰り返すうちに、「ジャンボフェリーが神戸港で『お風呂シップ』を提供」とニュースになった。
その後、ジャンボフェリーを共同運航する関西汽船(現在は会社解散)や、同一航路を運航していた四国フェリーなどが加わり、2月2日まで輪番制でフェリーによる風呂の提供を続けた。お風呂シップは後に、運輸大臣から感謝状を贈呈されている。
阪神・淡路大震災では他にもさまざまなフェリーが被災地に貢献してきたが、とりわけ東灘区では、「ジャンボフェリーの風呂ですごくリフレッシュできた」と当時を振り返る人が多いという。
東神戸フェリーセンターはその後99年に閉鎖され、跡地は複合商業施設(サンシャインワーフ神戸)に変貌を遂げた。しかし、非常時に備えて岸壁は残され、カー用品店の駐車場や市営バス乗り場の背後にフェリー用の可動橋が残るという、ちょっと不思議な光景となっている。
なお、りつりん2は今も航行を続け、浴場は当時の面影を残している(男性風呂のみの提供)。ただ、新造船の就航に伴い25年に引退が予定されている。震災やお風呂シップに思いをはせながら、周辺を街歩きしてみるのも一考だ。
8段落目と12段落目:「はまなす」→「すずらん」
14段落目:状況によっては、はくおうの民間船としての後継である、はまなす(2004年就航、新日本海フェリー)が→状況によっては、新日本海フェリー「はまなす」(2004年就航)が
(2024年2月21日19:30ダイヤモンド編集部)