脈略がないことに
意味がある

「昭和20年代」のスペースでは、太平洋戦争中の「翼賛広告」が壁一面に貼られていた。敗戦時に小学生だった田原氏は、「学校の先生の言うことが、小学校の1学期と2学期とで180度変わった。それまでは戦争は正しいと言っていたのに、夏が終わると、戦争は間違っていたと言う。情報というものを疑うようになった」と振り返っていた。

 戦後の風俗の変遷が見て取れる映画のポスターも多数ある。「朽ちるのも自然だから、額に入れて飾らない」のが「まぼろし」流だ。過激な描写や、教師への批判的要素が物議をかもした『ハレンチ学園』(原作・永井豪)の映画化のポスターも目立っていた。

ハレンチ学園
雑貨

「昭和40年代」のスペースでは、全共闘などの学生運動も再現しており、「立て看」(※ベニヤ板に意見や主張などを記して校舎内外に立てかけたもの)や、机などを重ねた「バリケード」まであり、田原氏は「よく再現したなあ」と驚いていた。当時、東京・神田神保町にあり、学生たちの強い支持を得ていた新左翼系の書店「ウニタ書舗」(※1982年閉店)をモデルにした「ゲバラ書房」もある。

全共闘「立て看」や「バリケード」
ゲバラ書房を眺める2人
ゲバラ書房ゲバラ書房

「専門家にとって価値があるものを集めているわけではありません。生モノ、法に触れるもの、弱者を差別するもの、危険なものはだめですが、それ以外の、目についたものは、全部一緒に選別せずに並べています。奇妙なもの、極端なもの、常識からはみ出すもの。昭和というのは、それが実際に混在した時代なのです」とセーラちゃん。

 ところで、会場を観覧していると田原氏は何度か、「あれ? 田原総一朗?」と来館者から振り返られていた。昭和時代から活躍している田原氏も、まぼろし博覧会の一部と錯覚されたのかもしれない。「本物」とわかった来館者からの握手や写真撮影の求めに、田原氏は気軽に応じていた。

 まぼろし博覧会の展示はつねに「増殖」している。また、配置換えも頻繁に行われているため、リピーターも楽しめる。実際、一度来館した人の多くが、その不思議な魅力にひかれて再訪するようだ。

観覧3
観覧4

 観覧し終えた田原氏は、「エネルギーに圧倒された。こんな場所はほかにない」と感心しきり。我々取材チームが今回、観覧したのは、時間の関係で「大仏殿」と「昭和を通り抜け」のみだったが、敷地内にはほかにも、「怨霊寺」「まぼろし神社」「まぼろし島」「メルヘンランド」などのディープなエリアが存在し、すべてを観覧すると半日はゆうにかかりそうだ。

 通常の博物館や美術館の企画展では、来館者がキャプションを熟読して、肝心の作品を一瞥(いちべつ)しかしないような、もったいない場面にもよく遭遇する。しかし、まぼろし博覧会の展示はそれとは一線を画している。各展示物には基本的には説明文が付かないため、展示品そのものだけに目が惹きつけられるのだ。「こう見なさいという説明は不要。見る人が勝手に、いろいろと感じ取ってくれればいい」というのがまぼろし博覧会の信条だ。

 経年劣化したり、雨風にあたって傷んだりしても、特に修理や補修はしない。展示品が「進化」していると捉え、自然の成り行きに任せる。「現実世界のあらゆるものを、できるだけそのまま持って来て展示したい」と、まぼろし博覧会館長のセーラちゃんは言う。

一人ひとりと相対し
コミュニケーションを取ることの大切さ

 さて、「セーラちゃん」は一体何者なのか?

 その正体は、東京で出版社・データハウスを経営する鵜野義嗣氏だ。データハウスは1983年に手がけた『田中角栄最新データ集』以降、『悪の手引書』『危ない1号』などのヒット作を数多く有する知る人ぞ知る出版社である。

 鵜野氏は、金曜に都内での仕事が終わると、夜中に伊豆まで車を飛ばし、夜は借りている部屋で過ごす。そして週末はセーラちゃんとして、ボブカットのカラフルなウイッグを頭にかぶり、痩身(そうしん)にミニスカートのセーラー服や、ニーハイの黒のソックスに白のズック靴を違和感なく着こなし、来館者をもてなす。出迎えたり、話しかけたり、握手したり、アテンドしたり、見送ったりする。そして月曜の早朝3時にはまた車で東京に戻り、平日は出版社の業務をこなす。

 そこまで来館者一人ひとりとていねいに対応するのはなぜなのかと取材チームが尋ねると、かつての総理大臣、田中角栄が一人ひとりと握手する姿を見て、一人ひとりと相対することのインパクト、コミュニケーションを取ることの大切さを感じたと言う。

 なお、会場内には前述の上田哲氏の大きな遺影も飾られている。今回、ほぼ初対面の田原氏と鵜野氏だが、上田氏の遺影の前で一緒に写真を撮影していた。田原氏は上田氏の教え子であり、鵜野氏の出版社からは上田氏の本が出版されている。2人とも滋賀県出身の同郷であり、もともと滋賀県で教師をしていた上田氏とはつながりがあった。上田氏は2人の共通の知人だったのだ。

上田哲氏2人の共通の知人であった、故・上田哲氏の遺影の前にて

「では、準備をするので少しお待ちください」と告げた次の瞬間、セーラちゃんは、ぱっと身を翻し、忍者のように軽やかに急勾配の階段を駆け上がって施設内に消えて行った。そして、ものの10分もしないうちに、今度は普段の姿で、鵜野義嗣氏として、我々の前に現れたのだった。

 後編では、日本最大級のB級スポットを目に焼き付けたばかりの田原総一朗氏と、「キモ可愛い楽園」案内人のセーラちゃんこと、データハウス代表の鵜野氏との対談の模様をお送りする。

対談