VWによるイタリア・ブランドの買い漁りに対して敵対的な空気にならなかったのは、ランボルギーニ買収時、独首相がVW監査役あがりのゲアハルト・シュレーダーであり、政治的な火消しが盤石だったからだろう。イタリア側も、EU発足後の一時的な好景気が長続きせず、背に腹は代えられなかった。

 ランボルギーニ社の生い立ちを振り返ってみよう。フェラーリの創業者、エンツォ・フェラーリは第2次大戦前にアルファ・ロメオのレーシング・ドライバーを務め、地元のアルファ販売店の裕福なオーナーだった。

 対してフェルッチオ・ランボルギーニは、日本で言えばメカニックあがりの走り屋だった。大戦中にメカニックとして従軍したことで知識と技能を獲得、戦後、軍から安く払い下げられたトラック用エンジンを利用し、ガソリンではなく軽油で安く動くトラクターを開発・生産し、一挙に成功した。

 そんな彼がスポーツカーの開発に乗り出したのは、個人で買った(念願の)フェラーリを分解、その中身と乗り心地の「酷さ」に失望し、そこにビジネス・チャンスを見たからだと言われている。

アヴェンタドール投入で
年産3000台を突破

 99年、VWの買収後に登場したのが、2003年のガヤルドである。それまでランボルギーニは、旗艦ディアブロや後継のムルシエラゴ以外生産しておらず、年間生産台数は200台から600台の間を不安定に行き来していた。当然、会社の収益も安定しなかった。

 ガヤルドはVW傘下のアウディR8の姉妹車で、久々に旗艦より小さい「お手頃な」モデルの投入となった。その年の内に、年産1000台の大台に乗った。

書影『自動車の世界史』『自動車の世界史』(中央公論新社)
鈴木 均 著

 勢いを得たランボルギーニは2011年、満を持して旗艦をアヴェンタドールに託した。

 車体はカーボン、700馬力発生するV12エンジンの力を4駆で路面に伝え、最高時速は350キロ超、時速100キロ到達は2.9秒の性能を誇り、世界各国の有名サッカー選手らが所有するハイパーカーの王道となった。これで同社は年産3000台を超えた。

 ランボルギーニは近年、SUVのウルスの加勢で年産9000台に迫ろうとしている。

 アヴェンタドールの最終型と言われるSVJは770馬力までパワーアップしたが、さしもの「闘牛」も、次世代は何らかの電動システムで武装することとなろう。年産1万台の大台に乗ると、EUの規制によりCO2削減義務が課されるからだ。