書影『妻と私・幼年時代』『妻と私・幼年時代』(文藝春秋)
江藤 淳 著

 Y院長が、かすかに肯いた。

「……それにつけて、身勝手かも知れませんが、お願いがあります」

 と、私はいった。

「治癒の方法がないとすると、これからやっていただくことはすべて対症療法ということになるでしょうが、どうか患者にはできるだけ苦しみの少いように臨終を迎えさせて下さい。これについては何年も前から、夫婦のあいだで何度話し合い、確認し合って来たかわかりません。不必要な苦痛を味わわずに、静かに眠るがごとく逝きたい。慶子になるか私になるか、先に病人を看取る役割を果すことになった者が、お医者さまにお願いして、そうしていただこうという約束でした。その約束を果させて下さい」

「お気持は、よくわかりました。つとめて御意向に添うようにしましょう」

 と、Y院長がいった。いずれも表情を動かさずに、H主治医とP医師も肯いた。

 私は深々と一礼して、院長室を出た。