「金ピカ霊柩車」が日本で絶滅の危機→意外な国で「走る寺」「宮殿のような車」と大歓迎のワケ金ピカの装飾が施された宮型霊柩車 Photo:PIXTA

かつては、車体に「金ピカの屋根」などの装飾を施した「宮型霊柩車」が街を走っていました。ですが、昨今は「洋型」や「バン型」が主流になり、宮型霊柩車はひっそりと姿を消しつつあります。「霊柩車を見たら親指を隠す」という風習を知る人も、今後は少数派になっていくでしょう。一方で、海外では「走る寺」「宮殿のような車」と高評価されているとの情報も――。一体どういうことか、自動車ジャーナリストが解説します。(自動車ジャーナリスト 吉川賢一)

かつて「大隈重信の国葬」で使用も…
今は絶滅の危機

 煌(きら)びやかな飾り付けが施された宮型霊柩車が減少しています。全国霊柩自動車協会(全霊協)によると、2016年の時点で、宮型霊柩車は霊柩車全体の1割程度にとどまっていました。現在はさらに減っていることが予想されます。かつては霊柩車といえば宮型でしたが、昨今はさまざまな事情から「洋型」や「バン型」へと移り変わり、伝統的な宮型霊柩車はほぼ絶滅しつつあります。

「金ピカ霊柩車」が日本で絶滅の危機→意外な国で「走る寺」「宮殿のような車」と大歓迎のワケ今はこちらが主流!洋型の霊柩車 Photo:PIXTA

 かつての日本には、葬儀が終わった後に葬列を組み、ご遺体を火葬場まで送り届ける「野辺の送り」という風習が定着していました。その後、時代の変化とともにクルマで棺を運ぶようになりましたが、野辺の送りで使われていた「輿(こし)」という葬具の装飾が宮型霊柩車に継承されました。こうして伝統文化が受け継がれてきたのです。

 とはいえ、最初から全ての霊柩車が「金ピカ」だったわけではありません。全霊協によると、霊柩車の第1号車は大正時代に誕生したものの、装飾は質素だったといいます。その後、何台もつくられるうちに徐々に煌びやかになり、関東型・関西型・名古屋型・金沢型など、装飾に地域ごとの特色が出てきました。そしていつしか、これらの総称として「宮型霊柩車」という呼び名が使われるようになりました。

 一説によると、宮型霊柩車は1922(大正11)年の大隈重信の国葬で使われたことを機に、その存在が一般市民に広く知れわたり、世の中に普及したといいます。

 そんな宮型霊柩車が、ここにきて激減しているのはなぜでしょうか。