上役・久光に放った
西郷の衝撃のひと言

それを伝えるにあたり、西郷は久光に面と向かって、次のように言ったのです。

「地五郎(薩摩弁で田舎者)が京や江戸に行って何ができるか」

なんと島津久光の目の前で、久光のことを「地五郎(田舎者)」と言ってしまったのです。

部下の暴言に下した
上司の厳しいお仕置き

目上の人に対して礼を欠く話ですが、久光は多く本を読んだり書いたりするなど、インテリでプライドが高かったため、この発言にかなり傷つき、立腹したようです。

主従関係がはっきりしていた江戸時代のことですから、これは大事に発展します。

その直後、西郷は久光の命令に反したことにより、薩摩から遠く離れた沖永良部島に流されます(1862年)。

強いられた厳しい境遇が
自分を見つめ直す機会に

島流しの直接の原因は命令に背いたことですが、「地五郎」発言が影響したのは間違いありません。

この島流しのときの環境はかなり厳しく、西郷は生死をさまよいました。このときに寄生虫に感染したことは、西郷を終生苦しめることになります。

島流しのあり余る時間のなかで、西郷は大きな失敗を招いた、自分のあり方について反省したと考えられます。

2年弱の島流しが
人格を高めた

ここで、現代の私たちがイメージする人格者の「西郷どん」が生まれたのです。

なぜそのように言えるのかというと、2年弱にわたる島流しから戻ってからの西郷は、まったく人が変わっていたからです。

戻った後、島流しを命じた久光と会ったときのこと。盟友の大久保利通は、また何か失礼なことを言わないかと心配しましたが、西郷の対応ぶりは、「議論もおとなしく、少しも懸念これなく、安心つかまつり候」と大久保は手紙に残しています。

若気の至りと傲慢さで
遠回りしつつも理想を実現

この後、西郷は久光に対してだけでなく、まわりの人に対して率直に自分の考えをぶつけて心証を害することなく、本心を心の奥深くにしまい込んで対応できるようになりました。

だからといって、西郷は何もしなくなったわけではありません。むしろその逆でした。西郷は薩摩をリードする中心人物として幕末の政局を切り拓き、最終的には幕府を倒し、明治維新を実現したのです。

斉彬から、「日本を1つにして富国強兵すべきだ」という教えを直接受けた西郷でしたが、若気の至りと傲慢さゆえに遠回りしてしまいました。しかし、その遠回りは西郷の人格を高め、その人格がたいへんな推進力となり、とうとう斉彬が理想とした日本を実現したのです。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。