「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

実は上から目線の「傲慢な人間」だった? 人格者のイメージが強い西郷隆盛が上役に放った「あり得ないひと言」Photo: Adobe Stock

上司への軽口が
できる部下を窮地に追い込む

西郷隆盛(1827~77年)は、幕末から明治初期の武士、政治家、軍人。薩摩藩(鹿児島)の下級武士の家に生まれる。青年期から地域の青年組織「二才組(にせこ)」の二才頭(にせがしら=リーダー)を務める。成人後、下級役人を務めていたが、島津斉彬(1809~58年)に見いだされ、側近に抜てきされる。斉彬に直接指導を受けつつ、江戸・京都での政治工作に関わる。斉彬の急死後、大老・井伊直弼(1815~60年)が、尊王攘夷派に行った大弾圧・安政の大獄(1858~59年)により、京都から逃れてきた勤皇の僧・月照と入水自殺を図るものの、自分だけが死にきれず江戸幕府から身を隠すために奄美大島へ潜居。その後、鹿児島に戻るものの、斉彬の弟・島津久光を批判したうえに、その命令に反したため、沖永良部島に島流しとなり、生死をさまよう境遇に陥った。沖永良部島から戻った後、盟友・大久保利通(1830~78年)とともに薩摩藩をリードし、倒幕運動や戊辰戦争を経て、265年続いた江戸幕府を終わらせる。明治新政府では参議(大臣に相当)や陸軍大将など要職を務めるが、日本に対立的だった朝鮮に西郷を派遣しようとした外交政策「征韓論」で大久保利通と対立し、職を辞して鹿児島に戻る。鹿児島では「私学校」を設立し、後進の指導・育成に努めるが、士族(旧武士階級)にかつがれて西南戦争(1877年)に参加し、政府に背く。その戦いに敗れ、最後は鹿児島の城山で自じ刃じんして果てる。

西郷隆盛は、薩摩藩の名君・島津斉彬に見いだされ、「幕藩体制でバラバラになっている日本を1つにまとめて富国強兵すべきだ」という斉彬の教えを直接受けました。そして、斉彬の命令で江戸や京都で多くの著名な一流人に会い、政治工作に関わります。

薩摩という地方から、まさに中央政界へと一気に躍り出たのです。このとき、西郷は20代後半でした。

西郷は傲慢で
上から目線だった?

このような経験は、2018年の大河ドラマ「西郷どん」の“人格者”のイメージとは異なり、西郷を傲慢な人間にしてしまいました。

政治工作や実務では能力が高いものの、斉彬や著名な一流人と交わったことで、若さも手伝って“上から目線”の持ち主となってしまったのです。

その傲慢さが仇となる事件が勃発します。そして、西郷は生死をさまよう痛い目にあうことになったのです。

上役・久光の考えに
賛成できない西郷

斉彬の死後、薩摩藩主は斉彬の弟・島津久光の息子・島津忠義が継いだものの、事実上の最高権力者は久光でした。

久光は、斉彬の遺志を継ぎ、兵を率いて京都・江戸にのぼり、朝廷と幕府の間をとり持つとともに、幕府の改革をしようとしたのです。

しかし西郷は、薩摩から出たことがない久光が京都・江戸に出ても、悪化していた朝廷と幕府の関係を修復することは難しいと考えました。