僕は、「共にある」という感覚をどのように育んでいくのかという問題提起をしました。それが多様性や自由の条件だ、と言いました。

 これは、まさに社会観とかかわる、大事な問題です。

 ベーシックインカムやMMTはひとつの考えかたです。でも、これらの理論では、いまの日本社会を変えられません。お金をあげるから、あとは自分たちで自由に生きてねという主張は、序章で問題にした自己責任の社会をそのまま前提にしているからです。

 自己責任をもとめる社会のなかで、共にあるという感覚を作っていくことなど、とうてい不可能なのではないでしょうか。

経済成長に依存し続ける政治

 以上の限界は日本政治の限界でもあります。

 岸田文雄政権では所得減税と低所得層への給付をおこなうことが決定されました。ここでもまた、成長に依存することをやめられない思考の限界が明らかになっていますよね。インフレで暮らしに困っているからお金をあげる、ということですから。

 経済学の常識でいえば、物価があがっているときには財政を引き締めます。昔なら増税するところです。ですが、私たちの指導者は減税を選んだわけです。

 お金がもどってくればだれだってその一部を使いたくなるものですよね。ですが、そうすればまた物価はあがりますから、あらたな減税、あらたな給付が必要になるかもしれません。もしそうなれば、インフレの悪循環が生まれることになってしまいます。

 物価上昇の原因のひとつは円安です。円安の背後には、先進国のなかで日本だけ金利をあげられなかったきびしい現実があります。

 なぜ日本銀行は利あげに腰がひけたのでしょうか。それは、多額の国債を民間の銀行から買いとり、銀行が日銀に持っている口座のなかに550兆円におよぶ預金が生まれたからです。1%の利あげで5.5兆円の利ばらいがいりますから、日銀にとって利あげは冷や汗ものです。

 このようにたくさんの借金が理由で身動きが取れなくなるなか、政府はさらに減税や給付を繰りかえそうとしている。この現実をみなさんはどう考えますか?

 オイルショックによる物価高、その後遺症である不況、国際収支の赤字の三重苦にイギリスが苦しめられていた1976年のことです。ときの首相ジェームズ・キャラハンはこのように述べました。

「私たちはかつて、減税と政府支出の拡大によって不況を脱し、雇用を増やせると考えていました。包みかくさずに話しましょう。そのような選択肢はもはや存在しないのです。存在したとしても、戦後、そのたびごとに大変なインフレを引きおこし、より高い失業率をもたらすことでしか機能してこなかったのです」

 この50年近く前の言葉を私たちはかみしめるべきです。物価高への対策が減税ではあまりにも進歩がなさすぎます。

 野党も野党です。出てくるのは消費減税の大合唱。インフレへの本質的な対策にはなっていません。ここでもまた、成長に依存した思考のもと、あなたにお金を返してあげるから投票してね、という昔ながらの発想にしばられてしまっています。