農作業を放棄して仲間とマイペースに過ごす

 劉邦は、春秋戦国時代の末期に、父の劉太公と母の劉媼の3男として、中国東部に位置する泗水郡沛県の豊邑(ほうゆう)の中陽里(ちゅうようり)に生まれた。

 農民の生まれにもかかわらず、劉邦は農作業が嫌いだった。家の手伝いをすることもなく、仲間たちとぶらぶらしては、あちこちでケンカをしたりして、周囲に迷惑をかけていた。酒と女が好きで、賭博や盗賊も行っていたというから、ダメ人間そのものである。

 年長者の兄は実直な性格で、次兄も真面目に農業に打ち込むなか、劉邦はマジメな兄たちに触発されることなく、マイペースに暮らしていた。一方のライバルとなる項羽は、楚の将軍を代々務める家柄に生まれた。約190センチと体躯に恵まれたうえに、兵学を学んで身につけている。その勇猛さで、早くから周囲から注目されていた。

 青年期ですでに差がついている二人。だらしない劉邦が、まさか才気あふれる項羽に打ち勝つなど、誰も考えなかったことだろう。

気前が良くてからっとした性格だった

 それでも劉邦の周りには不思議と人が集まって来たらしい。『史記』では、劉邦の性格について、こんなふうに書いている。

「仁にして人を愛し、施すを喜び、物事にこだわらず、いつもゆったりしている」

 劉邦は気前がよく、性格もからっとしているので、ムードメーカーとして最適だったようだ。

 遊侠の徒と親交しながら、30歳で泗水の亭長として働き始めることになった劉邦。亭長とは、村長と駐在巡査を兼ねたような職務のこと。下級官吏ではあったが、たちまち市の役人たちと顔なじみになったという。いかにも人懐っこい劉邦らしい。

 のちに、項羽がほぼ一人で軍をひっぱったのに対して、劉邦のもとでは、優秀な部下たちが育つことになる。

 劉邦はこの自由闊達な青春期に「自分のダメさ」を自覚しながら、助けてくれる仲間の重要さを実感したのではないだろうか。