思い切りがよく少数精鋭の部下を大切にした
こんなエピソードもある。
秦の始皇帝が驪山陵を造営するため、多くの人員を強制的に動員したことは、冒頭に書いた通りだ。
その過酷な現場へ人夫を送り届ける役目を、劉邦が担っていた時期があった。当然、苦役を喜ぶ人は誰もいない。500人あまりの人夫を率いていた劉邦だったが、脱走者が次々と現れてしまう。
「一人でも逃亡者が出ると死罪」とまで厳命されていただけに、劉邦は大きなピンチを迎えることになった。ところが、劉邦はあっさりこう考えたという。
「どうせ死罪になるならば、人夫たちを解放しよう」
劉邦は一休みして酒を飲むと「お前たちはみな逃げよ。俺も逃げることにするから」と大胆な呼びかけを行っている。
それでもまだ離れない十数名のみを、自分の部下にした。この部下たちは、最後まで劉邦を盛り立てたという。「去る者は追わず」とは言うものの、実践するのは容易ではない。特に現代社会では、あらゆる現場が人材不足で悩まされている。去りゆく人も、つい引き留めたくなってしまう。優秀な人材ならば、なおのことだ。
だが、そんなときこそ、本当についてきてくれる部下を見極めるよい機会かもしれない。劉邦のスタイルをならい、少数精鋭の部隊を作ってみてはいかがだろうか。
「垓下の戦い」で劉邦は項羽に勝利
秦の衰退とともに、台頭していった劉邦と項羽。その歩みも両者でそれぞれ「らしさ」を発揮している。項羽は連戦連勝の負けなし。劉邦は勝ち負けを繰り返しながら、少しずつ勢力を広げていく。
そして陳勝と呉広による反乱から3年後の紀元前206年のことだ。劉邦が咸陽へ入城して、始皇帝の孫・子嬰が降伏。奏は滅亡した。
その後、西楚の覇王である項羽と、漢王の劉邦が、いよいよ対決する。俗にいう「楚漢戦争(そかんせんそう)」だ。
その戦いは、紀元前206年から紀元前202年まで続けられ、最後は「四面楚歌」の逸話で知られる「垓下の戦い」において、劉邦が項羽を打ち滅ぼすことになる。劉邦は漢帝国の高祖となる。項羽は生まれて初めての敗戦で、命を落とすことになった。
項羽との覇権争いに勝利するにあたって、劉邦を支えたのが、優秀な側近たちだ。
将軍の王陵は、劉邦と故郷をともにした兄貴分でありながら、劉邦に仕えて天下へと導いた。また、軍師として活躍した陳平も同じく、劉邦が中国統一するのに欠かせない存在だったといえるだろう。
時には怒鳴りながら傾聴の姿勢を貫いた
だが、優秀な人材ほど、自分の意見をしっかり持っているがゆえに、時には、リーダーに異議を唱える。耳の痛いことでも、きちんと受け止められる度量が、リーダーには求められる。
その点、劉邦は「傾聴力」に長けていた。『漢書』では、劉邦の性格について、次のように書かれている。
「性格が闊達で明朗、周囲に、他人の意見をよく聞き入れた。門番の兵卒のような下っ端の部下たちですらも、昔から馴染みのように親しく接した」
誰でも意見を言いやすい雰囲気を、劉邦が率先して作ったようだ。それもまた「自分は周囲に頼らなければ、天下はとれない」とよく実感していたからだろう。
一方で、『史記』では、劉邦が周囲の人を容赦なく、罵る場面も多く出てくる。自分の感情をその場でストレートに表し、その場で問題点を解消する。そして、誰とでも分け隔てなく接する。劉邦はそんなリーダーだったようだ。