日本のように全国をフォローする新聞などの媒体がなかった20世紀前半のフランス。そして地域に特化した地方紙がそれぞれのテリトリーの中で力を握ってきた。もちろん大会が始まった当初は全国放送のテレビもない。だからメーカーが商品を全国に宣伝するために、フランス一周の自転車レースは媒体として目をつけられたのだ。企業が商品をPRするアイテムとしてツール・ド・フランスは利用され、成長していくことになる。まずスポンサーネームをジャージにつけたのだが、画期的なのは1930年に広告キャラバン隊が企画されたことだ。

 レースが始まる1時間ほど前に、各社の販促スタッフが車に乗り、隊列を組んでコースを走る。沿道に詰めかけたファンに、ロゴ入りのキャップや商品サンプルを配布することにしたのである。ツール・ド・フランスは数あるスポーツ競技の中でも随一のプロモーション力のあるイベントの草分けであり、五輪やサッカーが商業主義を導入するずっと以前からこんなことをしていた。今日にも受け継がれるキャラバン隊は、明らかにツール・ド・フランスの風物詩としてなくてはならない存在になっている。

 キャラバン隊のスタッフとは宿泊ホテルのグレードが同レベルなので、ボクはよく遭遇する。それにしてもみんなある意味、選手以上にタフだ。大会の中で彼らはそれほど優遇されていないので、レース後の大渋滞が緩和してからホテルに向かい、給油や洗車、翌日のグッズの補充をする。夜遅くにようやく食事にありつき、夜更けまで会話がはずむ。それでいながら翌日にボクたちが目覚めたときには、すでにスタート地点に向かっている。

 各車両は日本だったら確実に認められないような装飾を施す。サンルーフや仮設ステップでダンスする若者たちは、スカイダイバーが装着するようなハーネスと命綱で車両に固定される。どんなに疲れていても、沿道に愛想よく手を振り、笑顔を絶やさない。休日も振り付けのチェックをホテルの駐車場でしていたり…。華やかさの中には涙ぐましい努力がある。23日間の全日程を頑張っているのは選手だけではないのだ。

スポンサーの変遷
日本企業も多数協賛

 ツール・ド・フランスやそれに出場するプロチームに協賛するパートナー企業は確実にその時代を反映している。ほとんどの日本人がツール・ド・フランスを知らなかった1980年以前はフランス自転車メーカーのプジョーやジタンなどがチームスポンサーをしていた。プジョーが自転車を作っていたと聞いて驚く人もいるだろうが、19世紀末から自転車を作っている筋金入りの自転車ブランドだったのである。

 1980年代になるとボールペンのビック、アイスクリームのミコなど庶民の生活に欠かせない食品や生活消費財がチームや大会そのものに協賛。さらにリゾート開発業者が名乗りをあげて、スキーリゾートのラルプデュエズなどにゴールするコースを設定させた。1990年代になるとスペインのバネスト銀行やケス・デパーニュ銀行などの金融機関が出資。現在もマイヨジョーヌのスポンサー、つまりツール・ド・フランスの第1スポンサーはLCL(クレディリヨネ銀行)。LCLはマイヨジョーヌのスポンサー就任に伴ってコーポレートカラーを黄色にしてしまったほどだ。