毒饅頭だった「バスツアー」

 2007年頃から、団塊の世代が退職時期を迎える。比較的可処分所得が多かった彼らは、消費、とりわけ旅行をエンジョイした。

 国内旅行では一番手近なバスツアーが人気となった。2000年に貸切バス事業の規制緩和が行われたこともあり、早朝に東京・名古屋・大阪を出て、日帰りで富士山観光、いちご狩り、そして大井川鐵道のSL急行列車「かわね路」号に乗車する、静岡周遊プログラムが組まれた。昭和20年代前半生まれの彼らは生活の中にSLがあった時代を生き、1970年代SLブームの中核となった世代でもある。煙を吐いて力強く走る蒸気機関車はもちろん、窓が開き、デッキのドアが開放できる客車まで、現役時代そのままのSL急行は、彼らのノスタルジーを刺激し、バスツアーの目玉となっていた。

 SL急行で金谷—千頭間は片道1時間20分。しかし、こんなに時間を取ると他のスポットに立ち寄れなくなる。そこで旅行会社は、SL急行のおよそ半分の行程となる、途中の家山駅でツアー客を入れ替えるようになった。新金谷駅から乗車したツアー客は家山で降り、国道473号線を先回りしてきたバスに乗って次の目的地を目指す。家山からは同じ座席に別のツアー客が乗って千頭まで行く。

 大井川鐵道はその分の運賃とSL急行料金を手にすることができた。この時期は鉄道営業単体で黒字を出せていた。「大変効率の良い輸送でした」と、鈴木社長は振りかえる。

ツアー客の主力は退職した団塊の世代だった(2010年) Photo by F.T.ツアー客の主力は退職した団塊の世代だった(2010年撮影) Photo by F.T.

 しかし、社内からは「ツアー客頼みでいいのか?」という疑問の声が上がっていた。筆者が2010年に財務担当役員時代の鈴木氏にインタビューした際にも「大井川鐵道がツアーの単なるルートとなり、目的地とされないのはよくない」という認識だったが、バスツアーの客をさばけば収益に直結するのだから、それに乗らない選択肢はなかった。

 だが突然、バスツアーが全滅した。大井川鐵道は窮地に追い詰められる。