日銀の見通しは物価上昇率2%
利上げの根拠が分からない

渡辺努・東京大学大学院経済学研究科教授わたなべ・つとむ/東京大学経済学部卒業。日本銀行、一橋大学経済研究所教授等を経て東京大学大学院経済学研究科教授。ナウキャスト創業者・技術顧問。 Photo by M.Y.

 物価に関しては常々、日銀には余計なことをしないでほしいと強く思っていました。

 日銀は3月にマイナス金利を解除して利上げしましたが、この時期に利上げをする根拠はありません。外国パック旅行費の公式統計を再推計すると、インフレの減速は明白でした(『マイナス金利解除は時期尚早か、「大混乱統計」の再推計でインフレ減速懸念が浮上』を参照)。3月の時点で物価が弱いことはデータから分かっていた中で、日銀はその兆候を無視して利上げに踏み切っています。

 さらに、7月31日の金融政策決定会合では政策金利を0.25%に引き上げ、今後も利上げを進めていくというメッセージまで出しました。

 会合後の会見で植田和男総裁が繰り返し述べたことは、日銀の展望レポートにおける物価見通しと合致するような数字が出ていて、オントラック(想定通り)であるから利上げをしたと。今後もオントラックであれば利上げをしますということですが、この説明は通りません。

 日銀はインフレターゲットを設定しています。物価上昇率の足元の数字または見通しがインフレターゲットを上回ったときに利上げをするのが経済学のロジックです。

 例えば、今後の物価が3%や4%に上がっていく見通しを日銀が持っていて、その見通しどおりに事態が進展している(オントラック)ということだとすれば、2%のインフレターゲットに対して物価が上がり過ぎているので、積極的に利上げすべきです。

 しかし、現時点での日銀の見通しは2%の物価上昇率に落ち着いていくという姿です。この見通しどおりに事態が進展しているので利上げしますというのが日銀の説明ですが、黙っていても2%に向かうのであれば何もしなくてよいことは、小難しい理論を持ち出すまでもなく自明です。また、メディアは日銀の説明を当然のように受け止めて報道していますが、それも私には不思議です。

 今の米国を見てください。米国の足元の物価上昇率はインフレターゲットを上回っていますが、この状況でもFed(Federal Reserve System、連邦準備制度。米国の中央銀行制度)は利下げを検討しています。なぜか。先々の物価上昇率がインフレターゲットを下回る可能性が高いと考えているからです。これが政策金利を決める際の典型的な考え方です。

日銀の目標は物価上昇率
金利がターゲットではない

――政策金利0.25%への利上げ後も、実質金利(=名目金利-物価上昇率)は大幅なマイナスです。実質金利の水準で考えれば依然として金融緩和的な環境を継続していることになりますが、このロジックは成り立ちませんか。

 そのロジックも成り立ちません。

 確かに名目金利は依然として0%近傍で、インフレ率は2%台なので、実質金利はマイナスの深いところにあります。日銀としても、大幅なマイナスの実質金利を徐々に調整したいということが本音かもしれません。

 とはいえ、物価上昇率の状況よりもマイナスにある実質金利の引き上げを優先することは経済学のロジックから逸脱しています。

 繰り返しますが、利上げすべきか否かの判断基準は、物価上昇率の足元の数字または見通しが物価目標を上回っているかどうかです。この判断に実質金利の水準の高低が入り込む余地はありません。

 日銀の説明ぶりを聞いていると、金利を所望の水準に誘導する、金利ターゲットに切り替えたのかと思えてきます。しかし現在の政策枠組みはインフレターゲティングです。目標とする変数はあくまでインフレ率であり金利ではありません。

――日銀が追加利上げに踏み切った背景には、過度な円安への対応もありました。

 金融政策は原則として為替に反応してはいけないということになっていますが、実務的な観点からは、中央銀行が過度な円安を警戒するのは理解できます。円安対策として利上げというのも理解できます。

 6月下旬から7月上旬の時期であれば、円安対策の利上げはあってもおかしくなかったと思います。この頃は一時1ドル=160円を突破し、円安に歯止めがかからない雰囲気がありました。

 しかし、7月31日の利上げのタイミングは円安が一服していて、利上げの根拠になるほど慌てて円安対策をする必要はありませんでした。加えて、Fedが利下げに向かうことは日銀も分かっていたはずです。

 過度な円安の是正と、大幅なマイナスにある実質金利の調整。メディアは利上げの理由として主にこの2点を挙げます。為替に関しては理解できる部分もありますが、実質金利がマイナスだから利上げすべきだというロジックは理解できません。

 そもそも日本は、賃金や物価が上がらない異常な状態が長く続いていました。私も金利は正常化した方がよいと思いますが、金利の正常化は後からゆっくり付いてくるもので、優先すべきは賃金と物価の正常化です。

――利上げ後は連日の株価暴落など株価の乱高下がありました。物価にはどのような影響を与えますか。

 株価の暴落によって、株式投資をしていない人も含めて消費者のマインドは落ち込みます。

 利上げをしていなくても、サービスの価格が鈍化している懸念がありました。これで日経平均株価が4万円近辺に戻らなければ、消費を下押しする影響が続き、店舗側もよりいっそう価格を上げにくくなるかもしれません。

賃金と物価の好循環に暗雲
政府と連合の取り組みに期待

――政策金利0.25%への利上げによって、物価上昇率が2%を切る可能性は高まるとみていますか。

 日銀の物価見通しで、25年度、26年度も物価上昇率が2%になると言い切れる環境ではなくなっていくかもしれません。今でもギリギリ2%に到達する程度の見通ししか出せていない中で、0.25%への追加利上げです。賃金と物価の好循環の実現は少し遠くなったと感じます。

――賃金と物価の好循環を実現する上で、政府に期待することはありますか。

 日銀の金融政策は名目金利をゼロ以下に下げられないなどの制約があるので、物価に対してできることは政府の方が圧倒的に大きいです。

 政府の重要な役割の一つは最低賃金の引き上げです。昨年、岸田総理は最低賃金の先行きについて語りましたが、このように将来にわたる最低賃金の引き上げを明示することは重要です。

 下請け法の改正についても、政府は中小企業が価格転嫁しやすくなるよう地道にまっとうに取り組んでいます。物価に対するインパクトも出てくるはずです。

 好循環の実現が危ぶまれるほどに消費が弱くなった場合は、所得税の減税や、所得税の対象ではない人を含めた給付金によって需要を喚起することも効果的です。

――来年の春闘に向けて、連合に求める取り組みは。

 連合が新しい賃上げのガイドラインを提示できないかと考えています。

 春闘の労使交渉では、労働組合側も過年度のCPI(消費者物価指数)を見て交渉しています。24年春闘であれば、23年度のCPIを見る。しかし、賃金はこれから受け取る話なので、過去の物価上昇率よりも今後の物価の見通しを基に議論した方がよいと思います。

 日銀は2%の物価目標を掲げているので、毎年2%の物価上昇率をベンチマークにして、賃上げ率も同様に2%をスタートラインにして交渉する。このような新しいスタイルを提案したいです。

 連合だけに押し付けず、総理周辺や経団連がこのような賃上げのガイドラインを出してもいいと思います。先々の物価の見通しを前提とした賃上げ目標を掲げれば、組合も経営と交渉しやすくなり、春闘の賃上げ率を高める効果が期待できます。