性欲をかき立てるには、暴力ではない種類の攻撃性、よりはっきりとした精力が必要になる。あえて自らを解き放ち、自己を優先させる力だ。パートナーを性的な対象として見ることも必要だ。相手をモノとして見たり扱ったりするのではなく、独立した性的な存在として見られるかどうかということだ。2人の間にある程度の距離があることが性欲の構成要素となる。

 浮気では人の世話をする必要はない。自己実現し、自分に専念できる。エステル・ペレルは交際や結婚生活で女性は「自分を見失った」と言う傾向が強く、男性は「愛した彼女を失った」と嘆く傾向が強いと書いている。

 女性も男性も親密さや鮮烈さ、より刺激的なセックスを求めている。生きている実感が欲しいのだが、皮肉なことに、男性は妻に似た、ただし家庭以外の場所での覚醒を求めている女性を見つけたがる。性欲と家事は切り離す方が楽だ。母親と妻の役割は家庭で安全に果たしつつ、性を離れた場所に置けば別人になれる。見知らぬ世界から来た誰かになれる。

最も嫌な浮気のシナリオ
「愛と欲望の分裂現象」とは

 愛と性を分ける人は両者を調和させることができない。自分自身の攻撃性を恐れ、抑えつけようとし、性欲を愛から切り離しているため、感情的な親密さが生まれれば生まれるほど性欲が生まれる可能性が低くなる。パートナーとのセックスが難しくなる。感情的なつながりを持たずに済む相手としかセックスができなくなるのだ。この現象は「愛と欲望の分裂」と呼ばれ、おそらく最も嫌な浮気のシナリオの1つだろう。

 愛と性が分離した人の浮気には楽ではない落とし穴がある。例えば職場で不倫し、恋に落ち、自分を愛し求めてくれる人が見つかったと思ったとする。ついに!両方の感情を抱ける相手がいたのだ。万歳。自分がこれまで間違った相手としか付き合ってこなかったと確信し、結婚生活を捨てて、その人と交際を始める。時が過ぎ、しばらくすると、また以前とまったく同じ状況に自分がいることに気づく。

 人間には単純化したいという基本的な欲求がある。漠然とした、形のない日々の苦悩を「セックスレスだから不幸なのだ」といった扱いやすいものにしてしまいたいのだ。あるいは「自分が不幸なのはパートナーのせいだ」などと。相手を替えても幸せはつかの間で、自分の問題点を本質的に整理しない限り物事はうまくいかないはずだ。