エサに通じる2本の走路があるとしよう──第1の走路はまっすぐ伸び、第2の走路にはエサまでのあいだに右か左に折れる分岐点がある。そこでラットにどちらかの走路を選ばせると、後者を選ぶそうだ。

 ハトでも同じことが言える。ハトに2つの選択肢を与える──第1のキーをつつくと、エサが与えられる。第2のキーは2つに分かれていて、同じエサを得るためには2つのうち1つを選ばなくてはならない。このときハトは、選択肢のある第2のキーを選ぶという。もらえるエサに違いがないことをハトはすぐに学ぶが、それでも選択することでもらえるエサの方を好むらしい。

ただ与えられたものよりも
自分で選んだものに価値がある

 人間もラットやハトと同じだ。主体性、コントロール、そして選択を求める気持ちは、選択が必ずしも最終結果を改善しない状況にまで及ぶ。

 デルガードの実験を例に考えてみよう。デルガードが参加者に与えた選択は、バナナ・ナッツアイスクリームかミント・ピスタチオアイスクリームかといった嗜好の強いものではなく、画面に映った2つの形(たとえば、紫色の楕円とピンクの星)だった。

 どちらかの形を選ぶと、5分5分の確率で金銭的報酬が受け取れる。どちらが正しい答えかを知る基準はないので、参加者が自分で選ぼうとコンピュータに選んでもらおうと、まったく違いはないはずだった。それにもかかわらず、デルガードの実験が証明したのは、たとえ選択することに利点がないように見えても、私たちは自分の思うままに決断したがるということだ。この傾向は人間の生態に深く根差している。

 よく考えてみれば、ただ与えられたものよりも、自分で獲得したものに対して内なる報酬を感じる機構の方が、適応という点では筋が通っている。