源頼朝が恐れた「奥州藤原氏」繁栄を支えた最重要の軍事物資とは?復元された奥州藤原氏の壮麗な政庁建物=岩手県奥州市の「えさし藤原の郷」 Photo by Ryo Kuroda

源頼朝は1189年に奥州藤原氏を攻めて全国制覇を成し遂げ、1192年、征夷大将軍に就任した。しかし、頼朝が最後まで恐れた奥州藤原氏は、どうしてそれほどの力を「辺境」と言われた奥州で築けたのだろうか。よく言われる「黄金」の力はもちろん大きかったが、実はそれだけではない。背景には、巧みな地政学的戦略があった。(作家 黒田 涼)

奥州藤原氏の繁栄につながった
「黄金」以外の要素とは?

世界遺産・中尊寺金色堂=岩手県平泉町世界遺産・中尊寺金色堂=岩手県平泉町 Photo by R.K.

 室町時代に入って足軽らによる集団戦が発生するまで、日本の武士の戦いは騎馬武者による一騎討ちが主体だった。距離が遠いうちは弓を射合い、接近したら馬上で刀で斬り合う。このために馬上から斬りやすいように日本刀には反りが発達したという。最後に組み打ちして首を取るのだ。

 このため古来武士の道は「弓馬の道」と呼ばれ、乗馬術と弓術の習得が何物にも増して重視された。弓も馬上から射やすいように下3分の1を持って使う強力なものに変化した。のちにモンゴル軍を撃退できたのは、神風ではなくこの強力な弓のためだ、という説もある。

 馬と弓と日本刀。これが日本の武士に必須の3点セットだ。

 馬が日本にやってきたのは5世紀ごろというが、その有用性に加え、当時の日本に馬の生息適地が多かったせいか、急速に全国で飼育が広がった。中でも、東北地方は上質の馬産地として名を馳せる。奥州藤原氏の時代よりはやや前の記録だが、平安時代の法律書である「延喜式」には、陸奥の上馬の価格は稲600束分とあり、伊勢や美濃の倍とされていた。

 馬の成育に適した牧が陸奥には多く設けることができたためと見られ、生産数も多かったらしい。武士が生まれ、武士同士の競い合いが激しくなると、より強く精強な馬が求められるようになった。

 源平合戦の焦点、宇治川の合戦に登場する名馬、生食(池月、いけづき)・磨墨(するすみ)はともに陸奥産との伝承もある。岩手県や青森県の南部地域は古来・名馬生産地として尊重されていた。源平合戦の傍観者だった奥州藤原氏は、双方に馬を売っていたかもしれない。