北上川狭窄部の
「関門」に進出した藤原清衡

 川の狭窄部は船の出入りを監視しやすい。北上川以外の道で南の仙台平野に出るには、山道をいくつも越えなければならず、奥州が交易を行うにはこの部分を船で通るしかない。仙台平野の先は太平洋で、奥州はそこから全国、世界へとつながることができた。

 または北上川は一関あたりまで船でさかのぼれるが、それより北は流れが急になり、いったん荷を下ろして陸路で荷を運ぶしかない。奥州との交易は、この二つの自然の障壁のおかげで、平泉を含む一関周辺が関門になっているわけだ。

 奥州藤原四代の初代、藤原清衡(1056~1128年)は平泉から20キロほど北方にあった豊田館に住んでいたが、1090年代の半ばごろ平泉に拠点を移した。実はこの平泉周辺は、蝦夷と呼ばれた地元豪族と大和政権のせめぎ合いの場だった。

 平泉の北側には衣川が流れ、その北岸一帯には清衡の母方一族で、源義家らに滅ぼされた安倍氏の拠点があったという。奥州市で「接待館遺跡」という大規模屋敷跡が発掘されており、そこが安倍氏政庁の有力候補地だ。

 蝦夷勢力はこの衣川を越えて南下することはできなかった。安倍氏時代に彼らが支配地とした奥六郡とは、この衣川から現在の盛岡市などがある岩手郡までのことで、この衣川が蝦夷とヤマトの境とされていた。