ヤマト勢力は衣川の南部を押さえることで奥州への関門を支配していた。ところが、清衡はその境を越えて平泉に拠点を築いた。その要因ははっきり分からないが、中央での武家同士の勢力争いで辺境の支配がおろそかになり、次第に藤原氏の支配力が強まっていたことは考えられる。奥州藤原氏はこの関門を押さえることに成功した。

 藤原氏は一関平野からヤマト勢力を一掃し、北上川狭隘部という自然の障壁の北側を完全に掌握した。こうなると馬・矢羽・鉄という最重要軍事物資の流通は、完全に藤原氏の影響下だ。

 藤原氏が全国の武士にこれらの物資を供給し、源平合戦など武士同士の争いは勢いを増したと言えるだろう。そして供給地に近い坂東(主に関東地方)の武者は「強い」と言われるようになる。奥州の物産は、坂東武者の生みの親と言ってもいい。

奥州藤原氏の政庁跡と推定される柳之御所遺跡=岩手県平泉町奥州藤原氏の政庁跡と推定される柳之御所遺跡=岩手県平泉町 Photo by R.K.

金の力が増した平安末期
京都や鎌倉をしのぐ「浄土」を実現

 そこに「金」の力が加わる。実は平安時代までは日本では金はさほど重宝されるものではなかった。仏像に貼る金箔ぐらいしか用途がなかったのだ。

 ところが、世界的な貿易が盛んになる中で、金の価値が上がっていく。金を貨幣として珍重する西アジアなどと中国あたりの交易が盛んになり、その中国の宋との貿易が日本で盛んになると、金の需要も高まっていく。

 平清盛は日宋貿易で巨万の利益を得たというが、清盛が相手にした中国人らは日本に金を期待した。それは彼らの交易相手の西方の商人たちが金を望んだからだ。