明治になってからも、ある時期までは私塾から発展した私立学校は光を放っていた。1858(安政5)年に福澤諭吉が創設した蘭学塾を起源とする慶應義塾は、明治初頭に入門者が増加し、塾舎の増築や出張所・分塾の開設、移転を繰り返して発展した(『慶應義塾百年史』)。

 大ベストセラー『西洋事情』(編集部注/福澤諭吉が幕末から明治にかけて著した、当時の西洋社会の最新事情を紹介した全10冊の書籍)を書いた代表的洋学者の私塾は、志ある全国の若者を惹きつけた。

 ちょうど維新の混乱期で、明治新政府は学校どころではない。「日本国中いやしくも書を読んで居る処は唯慶應義塾ばかりという有様」で、洋学といえば慶應義塾という状態が5、6年は続いたという(『福翁自伝』)。開塾5年の1863(文久3)年から1871(明治4)年までの入門者数は1329人を数える(「慶應義塾紀事」)。

異彩を放っていた私塾は
自由民権運動にも影響

『西国立志編』で知られる中村敬宇(正直)(編集部注/明治時代の啓蒙思想家、教育者、文学博士。英国の作家、思想家、医者であるサミュエル・スマイルズの『Self-Help』を翻訳したものが『西国立志編』)、自由民権運動を代表する思想家である中江兆民も、それぞれ同人社、仏学塾という私塾を持っていた。1873年創設の同人社は、福澤の慶應義塾、近藤真琴(編集部注/日本における航海術、測量学の基礎を確立した、明治時代の教育家、思想家)の攻玉塾(攻玉社)とともに明治の「3大義塾」と呼ばれたという。