江戸時代に起源を持つ私立
明治になってからできた国立
松村のほかにも、官学崇拝が社会の未開さに起因することを説く投書者(明大生など)や、官学私学を問わず「教育」を受ける行為そのものを疑問視し、学校の本領は社会から隔絶された環境で自由を享受することだ、と訴える投書者(早大生)もいた。
大正期には出身校で人間の格付けをすることや、上からの一方的な「教育」をありがたがることは時代錯誤だという認識がある程度広がりを見せていた。にもかかわらず、この「学生界」という投書欄には、帝大・高校側の優越感や、私大生の劣等感が以後も時折噴出した。
私立蔑視と官立(国立)崇拝は、明治から現在に続く根強さを持っている。しかし、教育学者の天野郁夫が「もともとわが国は、明治維新の以前から私学の国であった」というように、近代以前に私塾すなわち私立学校の果たした役割は大きかった。
中江藤樹(編集部注/江戸時代の陽明学者)の藤樹書院、伊藤仁斎(編集部注/江戸時代の儒学者・思想家)の古義堂(堀川塾)、広瀬淡窓(編集部注/江戸時代の儒学者、教育者、漢詩人)の咸宜園など、師弟関係を原点とする私塾は、徳川政権の昌平坂学問所や各藩の藩校と並立して学問と教育を担っていたのである(『大学の誕生』)。歴史家の大久保利謙も、「近世の学問発達史を見ても、真に貢献のあつたのは官立学校でなく、むしろ之等の私塾であつた」と指摘した(『日本の大学』)。