ここで私が不思議に思うのは、笠置一行(笠置と服部良一、歌手の服部富子、女優の宮川玲子の4人、ただし服部富子と宮川はホノルル他カウアイ島、ロサンゼルス、サンフランシスコ、オークランド公演に出演。笠置と服部はその後ニューヨークを回る)の渡米が1950年6月(10月帰国)で、ひばりとひばりの師匠・川田晴久(他に母親の加藤喜美枝、ダイナ・ブラザーズ)たちが笠置よりちょうど1カ月早い5月(7月帰国)だったことだ。
ひばり側は笠置の渡米を知っていたが
笠置側はひばりの渡米を知らなかった
『虹の唄』にはこう書かれている。
「『服部良一先生の全作品を歌っても、演奏してもいけない』という通知状が、日本音楽著作権協会から届きました。これにはほんとうに困ってしまいました」
前年の日劇のときとは違い、今度は著作権協会からという強硬な通達である。ひばり側がこの通達を受け取ったのは、ひばりが3月31日に他の生徒より遅れて小学校を卒業した後、渡米の許可が下りてパスポートも取得後だったとある。とすれば、笠置と服部側がひばりの渡米を知ったのは4月以降、まさに渡米直前だったことになる。