男性中心主義的な三位一体の教理が、別の解釈の可能性にも開かれうるとすれば、それは、まさしく「聖霊」をいかにとらえるかにかかっているのだ。3つのペルソナ(位格にして仮面)のうちひとつが女性ならどうだろうか。

正統のキリスト教神学者も
「精霊はキリストの母である」

 たとえば、2世紀後半にさかのぼるグノーシス主義の『フィリポによる福音書』(§17a)には、次のようにある。「マリアは聖霊によって孕んだ」と主張する者たちは間違っている。「彼らは一体何を喋っているのか知らないのだ。一体いつの日に女が女によって妊娠することがあり得るだろうか」(大貫隆訳)、というのだ。

 ということはすなわち、聖霊は「女」とみなされていることになる。

 さらに、遅くとも3世紀には成立していたとされる『使徒ユダ・トマスの行伝』(50)によると、「聖なる鳩よ、/隠された母よ、来たりませ。/あなたの業の中に現われ、あなたと交わるすべての人々に、/喜びと安息を与えるお方よ、来たりませ」(荒井献訳)、となる。ここで聖霊は、「鳩」にも「母」にもなぞらえられているのである。

 とはいえこうした考え方は、三位一体が4世紀に教義として固まっていくなかで、異端的なものとして退けられるようになったのだろう。