「親父が、酒に酔っ払って、(東京の)赤坂の階段から落ちて亡くなってしまったんです。当時は学生だったのですが、失意のどん底で何もする気がなくなって、大学にも通わなくなってブラブラしていました。そんな時、友達が阿佐ヶ谷の居酒屋に連れ出してくれて、皆で酒を飲んで騒いでいたら、別の席の男性が『お前ら、ちょっとは静かにしろ!』って、すごい剣幕で注意されてね。その人が、とある放送作家の方でした」

 この放送作家は、亡くなった父親の葬儀で一度だけ面識があった人物で、清水氏が置かれる状況や事情を知り、あるチャンスを与えてくれた。

「テレビ用の原稿用紙の束を渡されて、『これにコントを書いて、欽ちゃんのところに持って行けよ』って。もちろん、コントを書いたこともないし、できるとも思わなかったけど、何もやることがない時でしたから。言われた通りに持って行ったら、日本テレビで放送していた『欽ちゃんドラマ・Oh!階段家族!!』でコント作家としてデビューすることになったんです(笑)」

 突如として、萩本欽一が主演を務める番組のコント作家になった清水氏。ここから、コント職人たちとの仕事を通じて、さまざまな苦労を重ねていくことになる。

壮絶過ぎるコントづくり
先輩から教わった意外なヒント

 清水氏がデビューした番組では、ドラマパートの合間に挟み込まれる、西田敏行や谷啓などが演じるショートコントを担当した。プロのコント作家たちから教えを受けながら、コントづくりを学んでいったという。

ビートたけし、ドリフのコント職人が「時代の終わり」を直感した2組の天才芸人とは?〈再配信〉Comedian Kinichi Hagimoto:July 8, 2012 in Tokyo, Japan.  Photo:Sports Nippon/Getty Images

「この番組のギャラは、よくできた台本は1本5000円。ちょっと手直しが必要なら3000円。全然ダメなら0円という条件で作家に加わりました。1年目の年収が22万円でしたから、そこそこ採用されていたことになります。でも、ついさっきまで大学生だった素人ですから、いくら短いコントとはいえ、毎週のようにはネタを作れませんでした」

 その中で、先輩から教わったコントの作り方の1つが、「電話帳を読む」こと。喫茶店で電話帳をめくり色々な職業に目を移しながら、コントの設定を考えていく。そこには、萩本欽一ならではのコントづくりのヒントが隠されていた。

「萩本さんのコントは、“設定の妙”が大事なんです。AさんとBさんの関係性の面白さとか、このシチュエーションで出会った2人とか、そういうところに笑いを求めるのが特徴でした。だから、電話帳で電気屋さんを見た後に、お医者さんをみてパッと設定が思い付くようなことがありましたね」