ギブ・アンド・テイクという言葉があるように、人に親切にしたときや愛を与えたとき、つい「見返り」を期待してしまうのが人間だ。しかし寺山修司は「恩を忘れぬということは、過去の関係にこだわること」と語る。寺山修司の数々の名著から信頼、友情、恩返しの視点で幸福のヒントを考える。※本稿は、寺山修司『あした死ぬとしたら ― 今日なにをするか』(興陽館)の一部を抜粋・編集したものです。
希望を持つようになったら
おしまいだよ
「ほんとに、希望を持つようにはなりたくねえもんだ」それは、人間のかかる最後の病気なのである。現在を「世をしのぶ仮のすがた」だと考える多くのサラリーマンたちは、白ワイシャツとネクタイで覆面して、現在の中に巧みにまぎれこんでいる。そして、「今に見ていろ」と、心に誓いをかけて、希望病にとりつかれているのである。
那須さんから聞いたあるサラリーマンの一挿話である。
「製薬会社で55歳までつとめて、家庭ではよきパパであった一人のサラリーマンが、定年のパーティーをやって、家へ帰ってきた。
いつものように背広を浴衣に着替えて、茶の間でくつろぐ。テレビではヒットパレードをやっている。奥さんがお茶をいれている。
と、ふいに彼はガバッと身を伏して泣き出した。『ちがうんだ!ちがうんだ!ほんとの俺はこんなんじゃない……ちがうんだ!』」
世をしのぶ仮のすがただと思いこんできたサラリーマンの仕事をいつのまにか55歳まで続けてしまって、気がついたときには虚像と実像とが入れかわってしまっていた、と知ったときの暗い絶望感のなかで、まだ恋こがれつづけている「ほんとの自分」とは一体何なのだろうか?ロッツェは書いている。「人間の感情のもっとも注目すべき特質のひとつは、個々人としては多くの我欲があるにもかかわらず、人間全体としては現在が未来に対して羨望をおぼえないことだ」と。
だが、人間全体という視野をもたない人たちにとっては、明日への羨望だけが今日の諦念と取引きできる。それは「自己の現存在を、その個別的な品性、志向、恣意に適合させ、自己の現在をみずから享受しようとする」者のささやかなロマンチシズムにすぎないだろう。希望を際立たせるために、今日の先端と明日とのあいだの国境線を設ける者には「幸福」を論じることなどできないのである。
――『幸福論』