「お返し」を期待するのはくたびれる
過去に帳尻をあわせるな

 なるほど、恩返しの美談で心をうつ話もない訳ではない。傷ついた1羽のツルを助けてやると、その恩返しにツルが機織り機でとてもきれいな布を織ってくれる。そして、ツルを助けた貧しい老夫婦は大金持ちになるという『夕鶴』のようなメルヘンもあります。

 しかも、このメルヘンには、ツルが恩返しのために自分の生きた羽根を抜いて、わが身を犠牲にしていたというオマケまでつくのです。私は、この話を母からきいたのですが、母はあきらかに自分を老夫婦にたとえ、ツルを私にたとえているようでした。

 苦労して私を育てると、私がその恩返しにツルのようにわが身を亡ぼしても母のために働くというのが母の夢だったのでしょう。

 だが、よく考えてみると、母が子を育てることは、そうして見返りを期待するようなことではない。

 ギブ・アンド・テイク。与えた分だけ受けるといった計算ずくで、人を愛したり、面倒をみてやったりするというのは、あまりにもさもしすぎるという気がするのです。親子のあいだだけではなく、長い一生のあいだには人を助けたり、助けられたりすることはたびたびあります。

 しかし、だからといって一々、そのことの「お返し」を期待しているのでは、くたびれてしまいます。

 ツルを育てた老夫婦は、傷ついたツルをかわいそうだと思ったのであり、同時に、ツルの面倒を見るのが好きだったのです。

 ツルに何かしてもらおうという下心があった訳ではない。ツルが傷が全快して飛び去って行ったとしても、べつに「恩知らず」などといってツルを責めたりはしなかったことでしょう。大体、「恩」ということば自体が、辞書の中に必要なものかどうかだって怪しいものです。

 そんな言葉はなくても、ちっとも支障をきたすことなどないでしょう。

 私はどちらかといえば古風な性格で、やくざ映画の好きな人間です、義理人情のため、一生を棒にふる男を見て、深夜映画館の片隅でハラハラと涙をながすことだってあるのです。

 しかし、「恩」ということばは好きではない。恩を忘れぬということは、過去の関係にこだわるということであり、べつの言い方をすれば、恩もわすれぬが恨みも忘れぬ、ということになるのです。

 過去の愛憎、恩怨の帳尻をあわせることにばかり、くよくよしている人間は、現在を独立したものとして受け入れることはできない。

――『気球乗り放浪記』