信頼はどうつくればいいか
友情という「魂のキャッチボール」

 修理工がボールを投げると、老運転手が胸の高さで受けとめる。ボールが互いのグローブの中で、バシッと音を立てるたびに、2人は確実な何かを(相手に)渡してやった気分になる。

 その確実な何かが何であるのかは、私にもわからない。

 だが、どんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことは出来なかったであろう。ボールが老運転手の手をはなれてから、修理工のグローブにとどくまでの「一瞬の長い旅路」こそ地理主義の理想である。

 手をはなれたボールが夕焼の空に弧をえがき、2人の不安な視線のなかをとんでゆくのを見るのは、実に人間的な伝達の比喩である。

 終戦後、私たちがお互いの信頼を回復したのは、どんな歴史書でも、政治家の配慮でもなくて、まさにこのキャッチボールのおかげだったのではないだろうか?

 私はキャッチボールのブームと性の解放とが、焦土の日本人に地理的救済のメソードをあたえることになったのだと思っている。

「地理主義」とは、市町村の分布図の問題ではなくて、いかにしてそれを渉るかという思想の問題だったのである。

――『書を捨てよ、町へ出よう』
 友情というのは、いわば「魂のキャッチボール」である。1人だけが長くボールをあたためておくことは許されない。

 受けとったら投げ返す。

 そのボールが空にえがく弧が大きければ大きいほど、受けとるときの手応えもずっしりと重いというわけである。それは現代人が失いかけている「対話」を回復するための精神のスポーツである。恋愛は、結婚にかたちを変えたとたんに消えてしまうこともあるが、友情は決して何にもかたちを変えることがない。

 それは乱世ほど生まれやすい関係であり、敵と戦うときほど強く結びつく。

 私は「戦友」という軍歌が好きである。しかし、福祉国家にあっては平和になればなるほど友情は見失われてゆく。現代人の大半が「友情」ということばを口にしなくなったのも、彼らが「幸福だなァ」と思っているからにほかならないのである。

 だが、生半可な福祉国家なんてあてにしちゃいけないよ。

 祖国より、友情のほうがはるかに私たちを「人間らしく」扱ってくれる。

 そして今こそ、友情が人間の復権にいたるたった一つの時の回路のように思われる時代にさしかかっているのである。私は、フォスターのこんなことばが好きになったところである。

「もし祖国か友情かどっちかを裏切らなければいけないとしたら、

 私は祖国のほうを裏切るだろう」

――『ぼくは話しかける』