家臣団の内部分裂でピンチを迎える

 実に10年半ぶりに岡崎城を取り戻した家康は、今川家から離反する一方で、日の出の勢いの織田信長と清洲同盟を結んでから、三河の平定という次なるミッションへと動き出す。

 三河の支配にあたっても、家康は大胆な行動に出ている。一向宗の寺に認められていた、課税や外部の立ち入りを拒否できる「守護使不入(しゅごしふにゅう)」の特権を無視。強引に年貢を取り立てた。

 家康が強硬手段に出たのは、単に食糧難だったからだけではない。当時の三河では、浄土真宗本願寺派の有力寺院が、水運や商業を掌握していた。三河を統治するには、そんな現状を打破しなければならないと、家康は考えたのである。

 だが、家康の強硬な姿勢への反発は大きく、各地で一揆が勃発。一向門徒だけではなく、家康の政策に反対する国人や土豪、農民も加わった。さらに、一向宗に帰依する家臣たちが家康から離反するなど、苦しい戦いとなった。

 戦が長期化すると、家康は一揆側の和睦案をいったんは呑み、争いを集結させる。そして相手が武装解除をするのを待ってから、和議を反故。領内の一向宗を禁止すると、寺を破却して、三河から僧と信徒を追放している。

 油断させておいて「ここぞ」というときに畳みかける――。確かに家康はイメージ通りに「待つ」ことも重視したが、ただ静観を決め込むわけではなく、行動と常にセットだったことがわかるだろう。

家臣の意見を軽視して信玄に惨敗を

 しかし、そんな抜群の行動力と判断力に長けた家康を、完膚なきまでに叩きのめした男がいた。甲斐の武田信玄である。

 衰退の一途をたどる今川領をめぐって、家康と信玄は当初、協力関係にあったが、やがて対立。あの信長すら戦うことを避けたがった信玄と、家康は激突することになった。信玄が遠江に侵入し、猛攻を繰り出してくると、家康は二俣城を落とされまいと、浜松城を出て天竜川を越えたが、武田軍のスピードは想像以上に速く、一言坂で激突する。

 大軍の武田軍を前に、家康はやむなく撤退を決意。殿(しんがり)を務めた、本多忠勝と大久保忠佐(ただすけ)の2隊の活躍によって、家康は天竜川を再び越えて、浜松城になんとか退却している。信玄はすぐさま浜松城に向かってくるだろう――。

 家康はそう構えていたが、信玄は予想外の行動に出る。二俣城を攻略後、武田軍は南下。家康たちが籠城する浜松城を目の前にすると、急に方向を西へと変えて、浜松城の前を素通りしてしまった。そして三方原台地に上って、そのまま三河へと向かおうしたのである。まるで、浜松城にいる家康のことなど眼中にないかのように……。

 家康としては命拾いをした格好となったが、これほどの屈辱はない。家康が怒りにまかせて出陣しようとすると、周囲の家臣が制止したようだ。

『三河物語』によると「敵の人数は3万余りあり、信玄は熟練の武者です。ひるがえってわが軍はたったの8000にすぎません」と、重臣たちが家康をなだめている。

 だが、家康の決意は固かった。こんなふうに呼びかけて、家臣たちを奮起させている。

「多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、とがめない者があろうか。敵は多勢無勢で結果が決まるとは限らない。天運のままだ」

 家康の指揮のもと、徳川軍は武田軍と激突。だが、兵力の差もあり、武田軍に圧倒されて、壊滅状態に……。家康は惨めに敗走することになった。

 このときに家臣の意見をないがしろにしたことを、家康はのちのちまで反省したのだろう。

 武田信玄亡きあとに、織田軍と協力して、武田勝頼が率いる武田軍と激突。「長篠・設楽原(したがはら)の合戦」が繰り広げられると、重臣である酒井忠次の秘策に、家康はしっかりと耳を傾けた。

 忠次の案とは、武田軍が築いた「鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)」こそが長篠城の急所だとして、奇襲攻撃をかけるというもの。リスクの高さから信長は却下するが、家康は「面白い作戦だ、実行せよ」と忠次に伝えたともいわれている。

 思い切った忠次の奇襲は、見事に成功。武田軍の退路を断ったところに、信長軍の鉄砲戦術が炸裂。宿敵の武田軍に勝利することができた。