全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。
数多くいる歴史人物のなかで、戦国時代を終わらせて、泰平の世を築いたのが、徳川家康だ。家康は、どのようにしてリーダーシップを発揮したのか。その挫折の数々と、そこから家康が学んだことを解説する。著述家の真山知幸氏に寄稿いただいた(ダイヤモンド社書籍編集局)。

「江戸時代」を作った徳川家康を名リーダーに変えた“屈辱的な敗北”とは?Photo: Adobe Stock

「好機をひたすら待った家康」は誤ったイメージ

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし」

 明治期に旧幕臣の池田松之介が「家康の遺訓」として創作したフレーズだ。本人のものとして後世で誤解が広がったのは、いかにも辛抱強い家康らしい言葉だからだろう。家康に「焦らず我慢して天下を取った」というイメージが強いことは、この有名な風刺の歌からもわかる。

「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食ふは徳川」

 だが、家康の生涯を見ていけば、「急ぐべからず」どころか「機を見るに敏」とばかりに、好機と見るやすばやくアクションを起こし、「座りしまま」どころかアグレッシブに挑戦しては失敗し、次に生かすことで、天下人となったことがわかる。家康の人生におけるターニングポイントを振り返りながら、その実像に迫っていこう。

今川家の緊急事態に乗じて岡崎城で独立

 家康の「チャンスと見るやすぐさま動く」という性質は、17歳の時点ですでに発揮されていた。幼い頃から人質として今川家の支配下にあった家康。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起きると、総大将の今川義元のもとで、織田軍と戦うことになった。

 ところが、あろうことか総大将の義元が、織田軍に討たれてしまう。家臣たちと待機していた大高城に「義元が討ち死にした」という情報が寄せられると、家康は兵の動きが悟られにくい夜半まで待ってから、大高城を出発。そして、妻子が待つ駿府城ではなく、生まれ故郷である岡崎城へと向かった。

 簡単な決断ではなかっただろう。というのも、たとえ義元が討たれても、今川家には後継者の氏真がおり、重臣たちの生き残りもいた。この時点では、23歳の若き氏真のもと、今川家が再建されることも十分に考えられた。

 緊急事態を受けて、家康は急いで妻子が待つ駿府城に向かい、氏真を安心させてもおかしくはなかった。だが、家康は「今こそ人質生活から脱して、生まれた岡崎城に復帰するチャンスだ」と考えた。それも、いきなり岡崎城に向かうのではなく、いったんは大樹寺で待機している。

 そして大将を失った今川勢が岡崎城から撤退するのを見計らってから、「捨て城ならば拾わん」(『三河物語』)と言って入城したという。的確な判断と冷静な行動により、今川家と一戦を交えることなく、家康は岡崎城で独立を果たすこととなった。