チーム力が発揮された「伊賀越え」

 自分あっての家臣ではなく、家臣あっての自分である――。

 家臣たちが内部分裂して苦しめられた「三河一向一揆」や、家臣の意見を無視して手痛い敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」から、家康はそんなふうに学んだのだろう。

 1582年6月、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀によって討たれると、大坂の堺に滞在していた家康の身にも危険が迫ることになった。

 一刻も早く、光秀から差し向けられる討手から逃げなければならない。見つかりにくい山道から逃げるほかないが、そこには「落ち武者狩り」が横行している恐れがあった。明智勢にも、落ち武者狩りにも見つからずに、三河に戻るにはどうすればよいのか――。

 切羽詰まった状況のなか、家康は自決さえ考えたというが、家臣が代わる代わるに説得。伊賀国の険しい山道を越えて、三河へと向かうことになった。

 案内役を買ってでたのは、信長の家臣・長谷川秀一だ。そして道中の落ち武者対策としては、伊賀出身の家臣、服部半蔵こと服部正成が、200人余りを動員して、家康を守らせた。

 これこそが、「三河一向一揆」や「三方ヶ原の戦い」と並んで「家康三大危機」の一つとされる「伊賀越え」である。

 家康へのプロジェクトの提案から実行まで、「チーム家康」が見事なコンビネーションで、危機から脱することができた。

名リーダーは挫折から学んで生まれるもの

 後年、家康は全盛期にある豊臣秀吉に、こんなふうに言ったと伝えられている。

私は殿下のように名物茶器も名刀も持ちません。しかし、私にも宝があります。それは、私のために命を賭けてくれる500ほどの家臣です」

 こんな逸話からも、家康は「家臣を大切にした名リーダー」として名を残すことになる。だが、それは家康が数々の辛酸を舐めたからこその境地であり、生まれながらに名リーダーだったわけではない。

 リーダーとして何より大切なのは、臆せず挑戦し続けて、多くの失敗から学び、自分をバージョンアップさせていくこと。天下人となった家康の生き様は、そう教えてくれているようだ。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳 徳川実紀』(吉川弘文館)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』(ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』(NHK出版新書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)

(本原稿は、『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』に関連した書き下ろしです)