フジテレビの最期は、「蔦屋重三郎」と同じ?

 先述したように政治風刺は蔦屋の人気コンテンツでした。発禁を何度もうけながら、松平定信の政治も痛烈に風刺します。その結果、蔦屋は重過料により身上半減の処分を受けます。出版の免許は取り上げられなかったものの、財産の半分を召し上げられたわけです。

 これを機会に蔦屋はビジネスモデルを転換します。

 今風に言えば報道事業を取りやめて、販売コンテンツをバラエティ中心に組み替えます。ジャーナリズムは卒業して、楽しくなければメディアじゃないという新方針へと舵を切るのです。

 蔦屋重三郎にはメディア王のイメージがありますが、実際はこの時代、ふたりの売れっ子のタレント、つまり才能にその事業は支えられていました。喜多川歌麿と東洲斎写楽です。

 歌麿の美人画は今風にいえばアイドルのグラビアです。それも江戸の町で評判の美人の町娘を題材にします。人気の茶屋やせんべい屋の娘の肖像画ですから、まさに会いにいけるアイドルで、これが江戸の町民に大いに売れました。

 一方で蔦屋は政府からはあいかわらず睨まれ、何度も出版規制が入ります。

 令和の日本でも電子書籍には水着グラビアにグレーのマスキングが入ったり、検索にヒットしなくなったりしていますが、江戸時代にも似た政策が採られていたのです。こういった規制に対する考え方の違いから、結局、蔦屋重三郎と喜多川歌麿はたもとをわかちます。

 それと比較しても謎なのが、もうひとりの才能である東洲斎写楽です。役者絵でつぎつぎと大ヒットを飛ばしながらも、その正体が謎のまま一年たらず、作品としては第四期の発表を最後に世の中から消えていきます。消えていく前の代表作は『市川蝦蔵』でした。

 蔦屋は才能の二枚看板を失ったあと衰退し、蔦屋重三郎は三年後に病死します。

 蔦屋はメディアではなく小売店として存続しますが、1861年、江戸末期に廃業してその歴史に幕を閉じます。蔦屋の商標は「富士にツタ」でした。

 フジテレビもタレントの二枚看板を失いました。沈黙の報道局は蔦屋のように報道をこのままやめてしまうのでしょうか。

 歴史が繰り返すのかどうかはまだわかりませんが、時代は不思議と符合しています。