どうしようもなく落ち込んでいる。その落ち込んだ気持ちを忘れたい。

 その時に、話題のスポットに行ってみる、話題のレストランに行ってみる。

 そうして落ち込んだ気持ちを忘れたい。

 そうして、「I am happy.」と言えば何とかなる。

 話題のレストランに行ってみても、夜にはなかなか眠れない。朝起きて気力が湧いてこない。

 そこでまた気を紛らわすことをしてみる。消費社会はいくらでも気を紛らわしてくれるものがある。

 そうしたものを沢山持っていることが幸せと錯覚する。

存在しない「幸せ」を求めて
今日も多くの人が頑張っている

 本当には幸せではないが、幸せの幻想を与えてくれるのが消費社会である。だからお金が大切になる。消費社会では、お金がなければ気を紛らわす体験がなかなかできない。

 今、書いたように、消費社会になったからこそ、心理的成長がますます重要になってきた。

 つまり偽りの幸せを得るためにお金が必要になる。そしてお金を得ても本当には幸せになれない。

 ある人は「否定的幸せ」という言葉で、それを表現している(注3)。

 そしてこの「否定的幸せ」は消費社会から生じてきたという。

 そして心理的に成長できていない人は、この「否定的幸せ」を得られないということで不幸になる。

「なんで自分ばかりがこうなるのだ」と世を恨む。「否定的幸せ」を得ている人と自分を比較して不公平だと恨む。

 また消費社会で頑張っている人の方は、まさにイソップ物語の犬である。存在しない肉に向かって飛びつく。そしてすべてを失う。

「幸せな人」と「幸せに見える人」の明らかな違い『人生の勝者は捨てている』(加藤諦三、幻冬舎新書)

 そんな幸せは存在しないのに、幻想の幸せを得ようとして、自らの人生を失う。イソップ物語の犬と同じである。

 消費社会で成功するために頑張っている人は、幻想の幸せに飛びついて、自分の人生を失っている。

「笑顔のうつ病」と書いたハイジ・マッケンジーは、休むことなき「あるタイプの幸せ」の追求は、人を不幸にすることもあるし、うつ病にすることもあると言う。

 存在しない「幸せ」という名の不幸を求めて、今日もまた多くの人が頑張っている。

 消費文化が栄える今こそ、先哲の教えに耳を傾ける時なのである。

注3 John F. Schumaker, In Search of Happiness, Praeger Pub Text, 2007, p.39.