日本の「放送メディア」の源流は
「権力の監視」とは対極だった

 2024年1月に起きた能登半島地震の時、現場などから「SOS」の声が発信されていても、「うそかもしれない」と疑う人も多く、助けを求めている人や、助けたいと思っている人たちが翻弄(ほんろう)される様子を見て、自分の「メディアリテラシー」への考えが根底から崩れました。

おふたり

 これまでは、「情報は本当かどうか、一呼吸置いて確かめてから行動を」と言ってきましたが、災害時に偽のSOSが拡散される中、「緊急を要する本当のSOS」までが埋もれてしまう危険性に、ハッと気づいたのです。

 そこで、能登半島地震では、現場からSOSの声があれば、本当に支援が必要なのか、ていねいに情報を集め、実際に現場に確かめに行くということをしました。

 でもやはり私個人の力では限界があります。そこで、こうした「災害時におけるデマの危険性」「本当のSOSが埋もれてしまう」という問題を多くの人に知ってもらい、一緒に考えてもらいたいと思ったのです。

田原 本では、日本の「放送メディア」の源流が何なのかをたどる章がありますね。

 はい。大学生のころ、プロパガンダに関心を持ち、「ナチスドイツと大日本帝国のプロパガンダ」を卒業論文のテーマにしました。ドイツは戦後、ナチスによる独裁の中で動員されたメディアのあり方を徹底的に検証しました。でも日本は戦後も、新聞社や放送局が変更を迫られることなく事業を継続していた。このことに疑問を持ったからです。私がNHK入社をめざすきっかけにもなりました。

 ドイツと同盟関係にあった大日本帝国は、当時、ナチス政権下のドイツに創設された国民啓蒙宣伝省の初代大臣、ヨーゼフ・ゲッべルスの指揮の下で遂行された宣伝戦略を模倣し、大衆社会の世論を戦争遂行の空気へと誘導していきます。1925年、日本最初のラジオ放送が始まり、翌年に設立された「日本放送協会」により全国放送が開始されました。

 放送局の職員は、国家への奉仕や、軍部や政府の報道機関としての役目を果たすという意識を持って、政府と一体となって世論の指導を行うことを表明していました。「放送メディア」というのは、国家の宣伝機関として普及していったんですね。

 日本の放送メディアは、国家という枠組みのもとに生まれ、発展を遂げた。「権力の監視」とは対極にあったということを自覚しておかなければなりません。国家をその出発にしている以上、そもそも「放送」という概念の中には「権力の抑止」という考えはまったく存在していなかったわけです。

「報道写真」の概念は
国家の宣伝戦略として広まった

堀さん1

 一方で、1930年頃に「報道写真」という概念も生まれました。

 ドイツのグラフ誌で活躍していた日本人写真家たちが、ナチスの外国人ジャーナリスト規制によって、日本に戻ってきました。そこで、自分たちが携わっていた「レポルタアゲ・フォト」を「報道写真」と訳したといわれています。「ルポルタージュ」という報道の分野を日本に持ち込んだわけですね。
 
 しかし、時代は第2次世界大戦前です。また、折しも1940年に開催予定だった「幻の東京オリンピック」の前夜というタイミングでもありました。日本の国力をアジアや欧米列強にどう伝えるのかといった対外宣伝戦略や、国威発揚に、報道写真家たちが組み込まれていきました。

田原 国家戦略として、放送メディアや報道写真が利用されたわけですね。

 そうですね。国家(軍)の宣伝戦略の真っただ中に置かれていた。そういうところから報道はスタートしているので、私たちは一定の警戒心を持ち続ける必要がありますし、報道に関わる者はこのことを自戒すべきだと、本に書きました。

田原 堀さんはNHK出身でしたね。民間の放送事業者は(総務省から許認可を受けた放送免許をもとにした)免許事業ですが、NHKは公共放送なので、ある意味、政府の下請けです(※)。
※民間資本で設立し、広告放送を主な収入源として運営される「民間放送」に対し、受信料を主な財源として営利を目的としない公共的な事業体によって行われる放送を「公共放送」という。日本のNHK(日本放送協会)やイギリスのBBCなど。NHKは、国家の強い管理下で行う「国営放送」と異なり、「公共放送とは営利を目的とせず、国家の統制からも自立して、公共の福祉のために行う放送」と説明する

 NHKは、(国家の強い管理下で行う)国営放送ではなく、公共放送ではありますが、国会から選ばれた人たちが経営委員となり、さらにその経営委員たちがNHKの会長を選びます。

 基本的に、時の政権の方針に非常に近い人事体系になっている点で、民放とは違った意味で、政権の代弁機関になりかねないリスクを負っていると思います。

 いずれにせよ、NHKも民放も、もっと政府と闘えばいいのにと思います。田原さんはずっと闘ってこられましたよね。

田原さん1

田原 かつて僕はテレビ東京に勤めていましたが、42歳でクビになりました。

 その頃、雑誌に「原子力戦争」という連載をしていて、そこで、電通を徹底的に批判したら、電通が「こんなことを書く記者がいるテレビ局には、もうスポンサーをしないぞ」と言ってきた。

 今度はそれを原作にして映画までつくると、僕のいる局の局長が処分されると発表があり、それで会社を辞めざるを得なくなりました(詳細は『田原総一朗はなぜフリージャーナリストに?知られざるエネルギー問題との因縁』)。

 私もNHK職員の時に同じような経験がありました。自分が叱られるのは構わないのですが、上司たちが次々と会社に呼び出されるのは、忍びなかったですね。

 実は、この本では企業名こそ具体的に出してはいませんが、100年前に起きた関東大震災において、電通の存在が見え隠れする場面があります。

おふたり

 当時、報知新聞が、震災から5日後に、約3万8000人の死者が出た現場の写真を掲載したところ、政府から「国民が見るには残酷すぎるので、新聞を回収せよ」と命じたのです。

 しかし一般の人々は、「回収しなければならないほど残酷な写真とはどんなものか」と、かえって一般の人々の関心を高める結果になりました。

 そこに目を付けた絵はがきの業者が、写真に煙を加えたり、うその説明を付けたりしたところ、その「捏造」絵はがきが飛ぶように売れたんです。このとき、報道機関や絵はがきの業者に、写真を提供していたのが、フォトエージェンシーとして設立された電通でした。

 彼らは写真を撮ってメディアに販売しましたが、その写真がどう使われるかについては責任を負いませんでした。このような、「売れる写真ならどんどん売ってしまえ」というあり方に、電通の源流があると私は思っています。

 情報を発信すると、さまざまな議論が起こりますよね。議論が起こることはいいことですが、最近は情報がフェイクニュースに利用されたり、情報を巡って分断や対立が生じたりします。「情報の発信者」はどこまで責任を負うべきなのか、このことはいつも考えますね。田原さんは、そのあたり、どうお考えですか。