発明やイノベーション、偉業は、“I”ではなく“We”から生まれる──。こうした共創的な関係を、アメリカの作家ジョシュア・ウルフ・シェンクは「クリエイティブ・ペア」と名付けた。彼によれば、似た者同士ではない対照的な関係でありながらも、互いに補完的・依存的であり、だからこそ「1+1=∞」といった相乗的な関係へと発展し、ついには人々を驚かすような成果が創造されるという。
本田技研工業(ホンダ)は、まさしく本田宗一郎と藤澤武夫というクリエイティブ・ペアによって発明された。そのほか、井深大と盛田昭夫、ビル・ゲイツとスティーブ・バルマー、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンなどが浮かんでくるのではないか。もちろん、科学や芸術、政治など産業界以外にも、ロールモデルが見つかるだろう。

クリエイティブ・ペアについて私なりに考察を加えると、彼ら彼女らは、無意識の「共感」(empathy)で結ばれたパートナーである。この共感は、相手を対象化し第三者の視点から判断する共感(sympathy)と異なり、本能的に相手になり切る暗黙的な感情移入のことであり、それゆえ動的な広がりを秘めている。したがって、我々が知識創造において重要視している「相互主観性」(intersubjectivity)が形成されやすい。
相互主観性とは何か。人間一人ひとりに、それぞれの主観が存在する。2人の人間がいれば、2つの主観がある。2人が顔を合わせるだけでは、それぞれの主観は融合することはない。ところが、全人格的に向き合い、互いを受け容れ、ひとたび共感が芽生えると、それぞれの主観を超えた「我々の主観」が形成される。多くのエピソードが物語っているように、宗一郎と藤澤の関係はまさしく相互主観的であった。
2人の邂逅は、1949(昭和24)年、宗一郎42歳、藤澤38歳の時だった。以来1973(昭和48)年に引退するまで、藤澤いわく、未来をつくり出すのが宗一郎の仕事であり、その未来を形にするためのレールを敷くのが自分の仕事であると、互いの役割を分けた。また、中国文学者の吉川幸次郎氏が経営を機織りに例えた話を引いて、自分は「経」(たていと)で、宗一郎はいろどりや模様を生み出す「営」(よこいと)であると言う。
藤澤の仕事を振り返ってみると、銀行や労働組合との交渉、産業スパイ事件への対応といった渉外業務をはじめ、技術研究所の分離独立と専門職制度、役員大部屋制やワイガヤ、職務職能給制度の導入といった組織活性化の施策など、まさしく宗一郎の右腕として経営実務を請け負った。その一方で、スーパーカブの開発、アメリカ市場への進出、世界一のオートバイレース「マン島TT(Tourist Trophy)レース」への参戦、鈴鹿サーキットの建設など、ホンダという会社の成長とユニークさをプロデュースした。
先ほどのような藤澤自身の弁もあり、そもそも社長と副社長という肩書きや年齢の違いもあって、2人の間柄はもっぱら主従の関係で語られてきた。しかしながら、私の目には、共感で結ばれた、まさしくクリエイティブ・ペアに見える。
多くのペアは、トップとナンバー2、指揮官と参謀といった主従の間柄であり、それゆえ相手の顔色をうかがったり、理不尽なことでも正当化や同調を強いたりと、なれ合いの関係になりやすい。当然、既存事業を破壊するような大胆不敵な変革など、うまくいくはずがない。しかし2人は違う。1970年にアメリカのマスキー法に対応した新エンジンの開発をめぐって、空冷式にこだわる宗一郎と、水冷式を推す当時開発プロジェクトを指揮していた久米是志(後の第3代社長)との論争に割って入り、宗一郎を諫めたのは、ほかならぬ藤澤であった。
現在、彼らのような間柄を見つけるのは難しい。しかし、デジタルの時代だからこそ、けっしてデジタルでは生まれてこない関係が価値創造の源流となるのではなかろうか。
●構成・まとめ|岩崎卓也 ●イラスト|ピョートル・レスニアック
*謝辞|本イラストレーションの制作に当たっては、本田技研工業広報部にご協力いただきました。