それとは対照的に、フォークのシンガー・ソングライターやロックミュージシャンは、商業的な動機のために活動している「たんなる演奏家」とみなされないように注意を払っていた。彼らは時に反抗的な歌詞を取り入れたりしつつ、自分自身で作曲やプロデュースを行うことによって、自らのミュージシャンとしての技量や、芸術に対する誠実さを強調する傾向があった。
しかし、このアプローチは歌謡曲が持つ商業的野心や制作モデルとは相容れないものであったため、1960年代後半になると、こうしたミュージシャンはURC(編集部注/1969年1月に秦政明が設立した会員制レコードクラブ。「日本で最初のインディーズレーベル」と言われる事もある)やエレック(編集部注/エレックレコード。1969年設立のインディペンデント・レーベル。初期フォーク系の3大レーベルのうちのひとつ。今日のインディーズレーベルの先駆けとされる)のような、彼ら自身のレコード会社を設立するようになった。
こうした新興企業の存在によって、シンガー・ソングライターは自作のオリジナル作品を制作・販売することができるようになり、レコード音楽を通して社会や政治秩序を覆す力を獲得した。
このようなミュージシャンたちは歌謡曲から距離を置くべく、テレビでの演奏を避けることが多かった。1970年代初頭になると社会的なメッセージ性は大幅に薄れていたが、ロックやフォークは、彼らが商業的な問題に無関心であるとする言説にも支えられ、真正性のオーラをまとっていた。
どの要素も完全に当てはまらない
ユーミンの新たなアプローチ
このような環境の中で、ユーミンが表現したのは奇妙な組み合わせだった。
シンガー・ソングライターでありながら、フォークが大嫌いだった。自身の芸術的な誠実さを強調しながらも、商業主義を公然と受け入れた。そして、日本人のミュージシャンでありながら、彼女の音楽は西洋音楽に近いものとして受容された。言い換えればユーミンのアプローチは、ロック、フォーク、歌謡曲の要素を取り入れながら、そのどれにも完全には当てはまらないものだった。
ユーミン自身は、彼女の音楽とフォークとの間に線を引くことによって、この相反する感情を認識している。
あたしの歌がウケたのは、これまでのフォークが土くさく、どちらかというと四畳半的なハングリーな歌が多かった。あたしの歌は、そういうのとぜんぜんちがって、趣味的で、リッチな夢のある感じでやってきた。それがいまの時代にうまくマッチしてたんだと思う。