商業主義とミュージシャンシップを
融合させた先達たち
ユーミンは、「ニューミュージック」に関する言説を定義する上で不可欠な役割を果たしたため、同時代、およびそれ以降のほとんどすべての記述において、彼女はニューミュージック系シンガー・ソングライターの元祖として扱われるようになった。
このような見方に対してユーミン自身もしばしば誇りを抱いていた。
これはすなわち、彼女が何か「新しい」ものを創ったという大衆の認識を裏付けるものだったからである。
ニューミュージックというのは、ニューミュージックって言葉は嫌いなんだけど、まあこういう音楽は私がはじめたわけでしょう。私、ゼロからはじめたんだもの。だから、過去のものとは較べようがない。
もちろん、ユーミンの音楽は過去に作られたあらゆる音楽と比較されてきた。「古い」ものを知らずして「新しい」ものを理解することはできないからだ。同時代の評論家は、ユーミンのアプローチの新しさに注目したが、商業主義とミュージシャンシップを融合させる方向への発展は、実のところそれ以前のロックやフォークのミュージシャンたちから始まっていた。
ロックバンドのはっぴいえんどは、都市生活を描いた抒情的な歌詞と商業的志向を1970年代初頭に融合し、その傾向は多くのフォーク系シンガー・ソングライターによってさらに深められていった。
吉田拓郎は「ニュー・フォーク」の創始者として知られており、フォークが持っていた暗いイメージを楽天的な若者の音楽へと変え、商業的な成功を収めた。
岡林信康の「山谷ブルース」(1968)や中川五郎・高石ともやの「受験生ブルース」(1968)といった、1960年代を象徴する社会政治的なフォークソングが、ブルーカラーの労働者や学生に対する社会的圧力へと光を当てたのに対して、吉田拓郎のヒット曲「結婚しようよ」(1972)は、ロマンスを描くことでフォークのイメージを一新させた。