日本サッカー協会(JFA)の第11代会長に常務理事だった犬飼基昭氏が就任した。この会長人事、サッカー関係者やスポーツマスコミ、コアなファンからはかなり注目を集めていた。川淵三郎前会長(71)が誰を後任に選ぶかという興味からである。
川淵氏はご存じの通り初代Jリーグチェアマン。強力なリーダーシップを発揮し、Jリーグを立ち上げ、成功に導いた。日本代表が強くなり、ワールドカップに出られるようになったのも川淵氏の功績といえる。しかし2002年、JFAの会長になってからは批判を浴びるようにもなった。ジーコ監督を立てて臨んだ06年ドイツW杯は惨敗に終わったが、明確な総括をしなかったため一部のサポーターが責任を問うデモを行った。後味の悪さは今も残り、日本代表人気は下降する一方。W杯アジア予選でもスタジアムは空席が目立つ。
それでも川淵氏は強気の姿勢を崩さず、JFA会長としてサッカー界に君臨し続けた。今回の会長改選はJFAの規定による定年制(就任時70歳未満)に従ったものだが、後任を選ぶ「次期役員候補推薦委員会」の委員長になったのは当の川淵氏。そんな経緯から名誉会長になる川淵氏は、自分の意に従う後任会長を選び、院政を行うのではないかとも言われてきた。だから、後任には誰が選ばれるか注目されたのである。
そして3人いる副会長の中から選ばれる通例を覆し、常務理事から会長に抜擢されたのが犬飼氏だ。アンチ川淵派は批判の矛先をこのような形で会長に就任した犬飼氏に変えようとしている。が、この人事、アンチ派がいうほど悪くなさそうなのである。
サッカー選手から一転、
実力派ビジネスマンへ
まず犬飼氏の経歴を見て行こう。
出身は埼玉県浦和市(現さいたま市)。1942年生まれの66歳である。県立浦和高校から慶応大学に進み、サッカー部で活躍。日本サッカーリーグがスタートした1965年に三菱重工に入社した。この時期の三菱重工サッカー部は、1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲ったメンバー、杉山隆一、横山謙三、森孝慈らが在籍した強豪だったが、犬飼氏もその一員としてプレーしていたのだ。ポジションはMF。だが、選手としての限界を感じたらしく、4シーズン・27試合出場という記録を残して現役引退。サラリーマンとして仕事に専念するようになった。
その後犬飼氏はビジネスの分野で手腕を発揮する。1970年三菱自動車に転籍。タイ法人の立ち上げを成功させるなどの実績を残し、90年代は海外本部長、欧州三菱自動車取締役社長などを歴任した。この欧州時代には社業のかたわら数多くのスポーツクラブを見てまわったといわれる。サッカーをはじめとする複数競技のトップチームを持ち、その下部には育成システムがあり、地域住民が気軽にスポーツを楽しめる施設も持つ総合スポーツクラブだ。地域ぐるみで運営されるスポーツ環境から、どのようにして強いチームや才能のある選手が生まれるのか、研究したのである。