そして、これはコミュニケーションの取れる人が限定されるほど、友達となる理由を必要としないことになる。極端な例を挙げるが、過疎の村に生まれて、村に同い年の人がたった1人しかいなければ、その人とは友達にならざるを得ないだろう。

 現代は、この友達となるための要素のうちの1つ、ある期間一緒に過ごすことによって友情が得られるという前提が、緩やかに崩れ始めているとはいえないだろうか。

 たとえば、LINEに代表されるようなメッセンジャーアプリは、24時間365日どこにいても、コミュニケーションを取り続けることが可能である。もちろんメッセージを送り合うのと、リアルの場に一緒にいるのは違うことかもしれないが、それでも例えば3日間しかともにしなかったアルバイト仲間が、インターネット上でやりとりすることで関係性を維持し、定期的に食事をするようになって友達になった例もあるかもしれない。

 また、ある程度パーマネントな人間関係(クラスや職場といった)から、共通の趣味を持った友人関係でゆるくつながるといったものも増え、友達とのコミュニケーションの総量は明らかに増えているだろう。

 こうして、コミュニケーションの総量が増え、維持できる友達の総量も増え、1000人の友達を管理するということが理論上は可能になってくる。一方で、多くの友達と付き合うほど、一人ひとりとのの友情の深さは浅くならざるを得ない。すると、ここに選択が生まれ、友達をこちらから主体的に選んでいくという発想になる。するとどうだろう、人気のある“友達”は誰からも選ばれ、そうではない人は誰からも友達として選ばれないということにならないだろうか。

 説明を簡単にするため極端なケースを挙げてみたが、格差が拡大する仕組みは分かっていただけただろうか。もちろんインターネット以前にも友達が多い人、少ない人というのは存在したが、より顕著に表れることになったのが現代である。

衝突を避ける現代の「友達」は
行きつけの店の常連客同士くらい軽い

 さらにSNSなどのツールによって、人間関係は可視化されるようになった。ネットスラングとして有名な“リア充”という言葉が表しているように、現代は友達や恋人の有無と、それにともなうイベントの多さなどが、その人の価値を決めているような空気がある。本当は友達の数や、「有名な○○さんとつながっている」なんていう話は、その人の本質的な価値とは無関係なはずなのに、だ。