二つの地域に根を張ると、
二つの視点が手に入る

米田 馬場さんは、旦那さんとお子さん3人の5人家族で、平日は東京で暮らしているんですよね? 実際には今、どれくらいの頻度で南房総に行っているんですか?

馬場 一番上のニイニが今中学生になって部活があったり、避けられない学校行事や家の用事があったりと、南房総に行けない週もあります。ただ家族のルールとして、南房総に行くことは生活の最優先事項というのを決めているんです。また、実際に家を2週間空けると、草刈が大変だったり、カビが一面にはびこってしまったり、手入れが大変になることは家族全員が自覚しているので、最低でも月に2週末は南房総の家に帰りますね。

米田 でも、お子さんの成長のフェーズが変われば、南房総への関わり方は少しずつ変化していきますよね。本の中でも、娘さんが田舎に行くことを嫌がるシーンが出てきて複雑な思いを持っていましたが。子どものいる人が特にそうだと思いますが、実際に二地域居住をしたいという人にとっては、そのあたりも悩ましいところですよね。そんなに田舎暮らしがいいなら移住すれば、と聞かれたりしないですか?

馬場 移住というライフスタイルを素直にうらやましいと感じることも、よくあります。ひとところにどっかり腰を据えて向き合う良さは確実に想像がつきますから。ただ、行ったり来たりの暮らしをしていると、都市と田舎の相関関係も見えてきたり、どちらの暮らしも“当事者”として考えられるようになるという醍醐味はありますね。二つの地域に住むというのは大変なことだけど、一つの地域に住むより圧倒的に視野が広がると思うんですよね。

米田 確かに、一つの地域に住んでいるだけだと見えないことはありますね。先ほどの室蘭の話もそうですが、疲弊した街、過疎化した街というのは必ずしもネガティブな要素だけでなく、実はすごく余白があって、これから変えていける可能性もあるということだと思います。もちろん、現実はそんなに甘くはないですが、一つの地域だけだと、別の視点が入り込む余地が最初からないというか。僕は福岡出身なので、「福岡っていい街ですよね~」とよく言われるんですが、福岡にいた高校生までは、世界がそこしかないから良いも悪いも判断しようがなかったんです。その後、東京に20年住んだら、地元の良さはすごくわかるんです。

馬場 そういう意味では、田舎から都会に出て、そこからさらに田舎に戻るようなUターンの人に可能性を強く感じています。彼らは何を持ち帰るんだろうと考えるし、何にしても、変えていける可能性がある。自分たちで作っていくことができる面白さがありますね。

米田 そうですね。手が入っていない分、田舎には可能性を感じるし、その可能性が感じられると、さらに愛着がわくというか。

馬場 ただ、今の私の暮らし方を簡単に人に勧められないのは、ゆるゆると田舎で暮らすスローライフとはちょっと違うからなんですよね。予想もしないようなアクシデントが起きたりするし。予定調和のない生活なんです。

米田 だからこそ、感動があるんだと思いますよ。人間は、自己の予想を超えたことにしか感動しないものだし。予想通りの人生だと「私はよくやった」と思いはしても、感動はできないでしょう。

馬場 確かに。いろんな場所に根を張るというのは、自分の予想を超えた“アクシデント”の種をまいているようなものですね。

米田 あとは、情報なり仕事なり、都市での生活を送る中で弱ってしまった自分が、蟄居=プチリタイヤできる場所として、二つの拠点を持つのもいいと思います。

馬場 人は、弱るものですもんね。弱ってはじめて気づきますね。

米田 人はそんなに打たれ強くもないと思います。『僕らの時代のライフデザイン』では“間を行き来する”という表現を使いましたが、馬場さんが先ほどおっしゃったように、一つの環境にいるとその環境の良さは見えにくくなり、だからこそ、出たり入ったりすることで、価値観がリファインできるんです。そのための、行ったり来たり生活をお勧めしたいですね。情報や消費生活は疲れるものだから、自分でエスケイプして立て直せる空間やコミュニティを持つことは、サバイバルのために不可欠だと思います。

馬場 自然に対峙することで、地球には人間以外の生物がたくさんいて、毎日100~300種の生物が滅びているということを、肌で実感できるようになる。東京での暮らしを離れ、田舎にも身を置く時間を持つことで、視野が広がるというか、興味や関心が広がり、一つの環境だけにとらわれる必要がないということに気づけますよね。バーチャルが進化した時代だからこそ、実感を持つということは大切だし、そういう意味でも、都市と田舎を行ったり来たりする生活から得るものは大きいです。(了)